蒼き狼とモンゴル帝国
1205年、長く統一政権を持たず互いに争っていたモンゴル高原の諸部族が、ある男によって武力統一されました。男の名はテムジン。
翌年にはモンゴルの族長(カン)を称しチンギス・カンを名乗りとます。この時を持ってモンゴル帝国建国とも言われますが、これはあくまでも後世の視点であり、この後のモンゴルは段階的に帝国化してゆくこととなります。
よくチンギス・カンは軍を1000人の単位に分けた軍制(千人隊、千戸隊、ミンガン)を行ったと言われます。
しかし部隊を10人隊、10人隊×10個で100人隊、100人隊×10個で1000人隊といった具合に編成するのは匈奴、突厥、契丹といった中華から見た北方騎馬民族によく見られるもので、おそらくモンゴル高原諸部族の軍は元々どこもそうであったと考えられます。
ただ、チンギス・カンが行ったこの軍制は同時に行政単位でもあり、1000人隊の後ろには『1000人の兵力を動員可能な遊牧民集団』が存在し、これがセットで扱われます。
チンギス・カンはこの1000人隊(『1000人の兵力を動員可能な遊牧民集団』込み)の長に、直属の指揮官(兼行政官)を任命し、それぞれを支配の単位として扱うことで、従来の血縁集団や部族集団としての遊牧民集団を解体&再編、個人的な主従関係による支配に成功します。
チンギス・カン
モンゴル高原平定、カン即位後の彼は西夏、ウイグル、西遼など周辺国を次々と下し急拡大。
当時、宋を攻め華北(中国北部、黄河流域など伝統的な中国の中心部)を席巻し、和戦を繰り返しながら宋と睨み合っていた『北方異民族』仲間で『中国征服王朝』の先輩にあたる女真族の金を背後から攻めて豊かな黄河以北(三国志では袁紹が支配したあたり)を奪取します。
これにより一挙に地域最強の大国となったモンゴル帝国は、中央アジアからイランを支配する大国、ホラズム・シャー朝へ遠征を開始。敵の国王が逃亡したことでたった2年程でほぼ完全勝利します。
その後も急拡大を続けるモンゴル帝国はコーカサス経由でロシアにまで侵入。さらに従軍命令に従わなかった西夏への懲罰侵攻はチンギス・カン自ら指揮を執りますが、その途中で彼は病死しました。
モンゴルが強すぎる件について
モンゴルがこれほど強勢を誇った理由のひとつとして、単純に遊牧民騎兵は最強だったということが挙げられます。
歴代の中国王朝は北方騎馬民族の侵入に苦慮し続け、長い年月をかけて万里の長城まで築いて対抗しました。
古代ヨーロッパではフン族の侵入によりゲルマン民族は略奪・虐殺され、追い詰められた彼らは住み慣れた土地を捨てローマ帝国領を脅かしました。ゲルマン民族大移動です。
フン族は代表的な北方騎馬民族である匈奴との関連を指摘されるアジア系騎馬民族です。
彼らの武器は「パルティアンショット」に代表される弓騎兵戦術。機動力に優れた軽装弓騎兵である彼らは有利な場所を占め、有利な距離から一方的に敵を攻撃することが可能でした。
逃げながら背後の敵を射殺すパルティアンショット
では、他の民族も同じように戦えないのかといえば実は実践した人物がいました。
中国戦国時代、趙の武霊王は北方騎馬民族の装備と戦術を取り入れた胡服騎射を導入します。これは効果的だったようで、その後の中華においてある程度普及してゆくこととなります。
しかし馬上で戦闘を行うほど乗馬が達者なこと、動く標的目掛けて弓を射って当てたり遠くまで矢を飛ばすほど弓術に優れることはどちらも特殊技能であり、両方に熟達し、かつ同時にこなせる兵を大量に揃えることは普通の軍隊では難しいことです。
しかし遊牧民は生活の中でこれらを当たり前に身につけており、遊牧民の成人男子はほぼ全員が優れた弓騎兵なので、特別なことをする必要は何もないのです。
一方で遊牧民は食糧生産力が農耕民に比して低く、人口がそこまで多くはなりません。定住をせずバラバラに散っているため、大きな集団としてまとまりにくく、長くモンゴル高原に覇者が現れなかったことにはこのことも影響しているでしょう。
そして、そんな彼らが一度ひとつにまとめ上げられてしまえば、日常生活が戦闘訓練な最強軍事国家が完成してしまうのです。畑耕してる連中なんて相手になりません。広大な平野部における野戦では遊牧民騎兵は火器の登場まで無敵であり続けます。
また、騎馬軍団の機動力をさらに強化する工夫もありました。
長距離行軍では1人あたり3~8頭の馬を用意、馬を頻繁に乗り換えることで行軍速度を維持、3日で250㎞を走破という記録も残っています。
そもそも馬上で生活をしていると言っても過言ではなく、移動生活を続ける遊牧民にとって長距離行軍は日常のそれであり、豊富な替え馬があれば当時としては非常識なほどの行軍速度を維持できたのです。
さらに情報伝達も重視しています。もともと遊牧民の生活は牧畜と狩猟の他に交易に支えられていました。そんな商人でもある彼らが情報を軽視するはずがありません。
主要な街道に駅を設置し、そこに人と馬を常駐させたのです。命令や報告は各駅をリレーすることで迅速に史上最大の帝国各地へと届けられました。
そしてこの駅伝制度は発動機の登場まで世界最速の長距離輸送通信システムとなります。
ロジスティクスという観点から独特なのは、モンゴル軍が生活基盤ごと遠征を行うことでしょう。
戦闘部隊と輜重部隊というのが農耕民の一般的な軍編成です。生活基盤である都市や農村から武器と食糧を持ち出して戦地へと赴くので、長期戦では策源地と戦地を結ぶ兵站線の維持が非常に重要です。
一方でモンゴル軍は妻子を伴って遠征に出ます。家は留守になる?いえいえ、家屋(ゲル)や家財も移動を前提としたものなので、そのまま持って行きます。戦地近くにアウルクと呼ばれる輜重基地を設けますが、その実態は遊牧民の移動集落そのものです。
「タボン・ホショー・マル」と呼ばれる5種類の家畜(馬、牛、羊、山羊、ラクダ)も連れて行きますし、合成弓(コンポジットボウ)などの武具を作る職人もいます。
ゲルや家畜、金品の管理は女性が主に行い、男たちは殺し奪ってくる。食糧や物資が足りなければ交易も行います。そして戦いが終われば次の戦地へアウルクそのものを移動。家族を伴い、牧畜を行い、交易を行い、殺し奪う(狩猟、戦争、略奪)。周囲の牧草や獲物がなくなれば他の土地へ移動する。
彼らにとっての戦争は日常的な経済活動と大差のないものでした。
パクス・モンゴリカとグローバリゼーション
チンギス・カンは史上最も子孫が繁栄した人物とされ、直径子孫は約1600万人と言われています。ちなみに関係ありませんが現在のモンゴルの人口が320万人ほどです。
それ程の子孫を残せた理由はもちろん、彼が強大な権力を持ち、多くの女性に子供を産ませ、またその子供たちも強大な権力を持ち、多くの女性に子供を産ませ……ということです。
そう、チンギス・カンの死後も、彼の子らによってモンゴル帝国は拡張を続けたのです。
1241年にはワールシュタットの戦い(レグニツァの戦い)でドイツ・ポーランド連合軍をほぼ一方的に虐殺、第2代皇帝オゴデイの死によって撤退したのでヨーロッパ方面の侵略は緩やかなものとなりましたが、黒海北岸の多くまではモンゴル帝国の統治下となります。また、1279年には南宋を滅ぼし中華も平定。
モンゴル帝国という一強勢力の誕生によって、パクス・モンゴリカ(タタールの平和)と呼ばれる安定した時代がユーラシア大陸に訪れます。もちろん、領土の周辺部(ヨーロッパ、インド、日本など)にとっては脅威以外の何物でもないのですが、多くの地域(世界の陸地の1/4、世界人口の半数以上!)にとっては安定した時代でした。
支配されている側にとって安定が良いものなのかというのはもちろん別の話。しかし逆らえないほどの強者なしに安定はありえません。パクス・ロマーナ、パクス・アメリカーナ、徳川三百年いずれも絶対強者による覇権が確定した状態です。
平和と秩序は対抗できる者のいない圧倒的な暴力によってのみ実現可能なのです。
(Wikipediaより引用)
しかしモンゴル帝国はただの戦争屋の集まりではありません。優れた戦闘国家を作り上げた遊牧民達は、先に述べたように交易を営む商人でもあるのです。
ランドパワーである彼らは領内での街道整備を積極的に行い物流が円滑に。関税も撤廃されたことで商業が振興されました。
それまでの時代、東アジアの教養人から見てもヨーロッパは「そんな場所があるらしい。ホントか知らんけど」程度のほとんど別の惑星か異世界というような認識であり、ヨーロッパ人から見た東アジアも同様でした。
しかしこのユーラシア両端を結ぶ超大国の出現によって、そして交通網の整備と移動の自由化が進み、実際に人間が個人レベルで行き来することも現実的に可能となったのです。
東方見聞録(イル・ミリオーネ、Il Milione)を著したマルコ・ポーロがそうであったように、実際に見て経験した情報が多くの人に伝えられ認識されました。
これは後の大航海時代に繋がる重要な転機であり、中世版グローバリゼーションと言えます。
ところで、グローバリゼーションが進むとあるとてもマズいことが起こります。それは2020年の人類も全く同じように経験していることです。
地中海、黒海シーパワーの重要拠点
現在のクリミア半島にある港湾都市フェオドシヤ。多くの作家や画家などに愛された避暑地であり、毎年多くの人々が訪れる風光明媚な観光地として有名です。
美しい海と景観(Tripadvisorより引用)
この街はかつてカッファと呼ばれ、海運で栄えた都市国家ジェノヴァ共和国の植民都市として賑わっていました。
ジェノバ共和国はスミュルナ(トルコ、現在のイズミル)、エーゲ海の島々、サルデーニャ島、コルシカ島などを支配し、黒海と地中海の覇権をヴェネツィアやイスラム勢力と争う中世ヨーロッパ最高クラスのシーパワーです。
カッファなどのクリミア半島における植民都市はベネツィアやピサなど、他のイタリアの海洋共和国としのぎを削りジェノヴァが手にした土地ですが、その主たる目的は奴隷貿易でした。
当時のカトリック教会は同じカトリック教徒を奴隷にすることを禁じていました。しかしスラブ人(現在のロシアや東欧の多くの国の多数派を形成する民族)たちの信仰する正教系のキリスト教徒は異教徒と見做され、捕えて奴隷としても問題がなかったのです。
また、この当時クリミアを含めたウクライナ周辺には(現在と同じく)多くのスラブ人が住んでいましたが、彼らは強力な国家を持たず、つまり軍事力もないため、奴隷狩りの対象として大変お手軽です。
ジェノヴァの商人は黒海で奴隷を仕入れ、レヴァント地方へと運び売り払いました。レヴァントのイスラム教徒にとっても異教徒であるスラブ人奴隷は喜ばれ高値で売れたのです。さらにムスリム商人からインド、中国産などの香辛料・宝石・絹織物といった高級品を買いつけ西欧に戻ることで莫大な利益を生み出しました。この遠隔地交易はレヴァント貿易、東方貿易と呼ばれます。
奴隷とするためのスラブ人狩りはノルマン人が本格的に始めたものと思われますが、スラブがヨーロッパ各言語の奴隷を意味する単語(英語ならSlave,スレイヴ)の語源となるほど盛んなものでした。
迫る史上最強ランドパワーと黒い死
1346年、このクリミア半島カッファにも戦火が訪れました。
モンゴル帝国の一派であるジョチ ・ウルス(キプチャク・ハン国)の軍勢が攻め寄せてきたのです。
野戦で対抗できないカッファ側は都市へ籠城することで対抗。包囲戦となりました。
遊牧民騎兵にとって攻城戦は不得意分野ですので、攻城戦はイスラムや中国といった被支配地域の軍勢が担当するというのがモンゴル帝国のドクトリンです。
当時の先進地域、イスラム世界の攻城兵器を駆使して攻め寄せますが、カッファの抵抗は強固でした。
カッファの城砦(Tripadvisorより引用)
黒海に艦隊を持たないモンゴル帝国に対して、カッファを支配するジェノヴァはバリバリの海軍国です。港湾都市カッファは援軍も物資の補給も自由に受けることができます。
城砦を破ろうと投石器などで攻撃しますが、かなかな決定的な戦果は上がらず、腰を据えての長期戦を覚悟して陸側を包囲していたモンゴル帝国軍に思わぬ敵が襲い掛かりました。
軍中に疫病が蔓延したのです。
交易網に乗って運ばれた伝染病
約2600年前に中国で仮性結核菌から変異して誕生したペスト菌はシルクロードなどを通してユーラシア各地に伝わり、流行条件に合致した際に地域的な流行(エピデミック)をもたらしてきました。
6世紀には「ユスティニアヌスの疫病」と呼ばれるパンデミックが地中海世界を覆いビザンティン帝国衰退の一因となったとも言われます。
ただ、その後はパンデミックというようなことは起こらず、現在の中国雲南省などの風土病として現地の人々に恐れられるに留まります。
1253年、皇帝即位前のクビライ率いるモンゴル帝国軍が雲南に攻め寄せ、この地もモンゴル帝国の交易網に取り込まれました。
まずペストは宿主であるネズミが交易品にまぎれることで、モンゴル高原、中央アジアへと運ばれ、ネズミの血を吸ったノミを介して現地のげっ歯類に感染が広まりました。
1320年代頃にゴビ砂漠周辺で人間へのペスト感染が拡大を始めたようです。
元寇で有名なクビライ
次に同じくモンゴル帝国支配下で人口稠密な中国へと伝播。1334年の杭州では前年の旱魃と飢饉で衛生、栄養状態が悪化していたこともありペストらしき疫病で500万人が死亡したと記録されており、全土で流行したことによって中国の人口は半減したと言われています。
もちろん中国以外のモンゴル帝国各地にも、中央アジアを起点として交易網に乗って拡大を続けるペストは
1341年頃 イラン
1345年頃 ロシア南西部
と陸路を順調に進み、1346年にはついにモンゴル帝国の拡大にも追いつき、西端の最前線陣中でも発生するに至ったのです。
史上初の生物兵器投入?
多くの人間が狭い空間にひしめく陣中は栄養、衛生状態が悪化しやすいこともあり、古くから疫病が発生することが多く、それにより撤退を余儀なくされることも珍しくありません。
カッファを囲むジョチ ・ウルス軍も同様で、これ以上の攻囲戦に得るものはありません。
指揮を執るジャーニー・ベク・ハンは撤退を決意したものの、怒りと悔しさのあまり、呪詛の言葉と共にある命令を下します。
不幸のおすそ分けとばかりに、ペストにより死亡した兵士の死体をカタパルト(投石機)でカッファの街へと投射させたのです。
なお、これは史上初の生物兵器(この場合はウイルス・細菌兵器を指す。馬や蜂や植物毒は含めない)による攻撃とも言われます。記録上は確かにそうなのかもしれません。
しかし実際には同じような事がそれ以前にも数多く行われていたことは証拠はなくとも確実でしょう。
疫病で死んだ死体を敵陣に投げ込むことをそれまで誰も思いつかない?実行しない?人類はそんなタマじゃありません。
この時投げ込まれた死体によってカッファの人々がペストに感染したのかは不明です。
確かに死体にノミがついていたかもしれませんし、ネズミが死体をかじったかもしれません。それによって感染が拡大しても不思議はありません。
しかし、この死体とはまるで関係なく、ジョチ ・ウルスの陣営からカッファの街へとネズミが侵入したのかもしれません。
絹の服(ペスト感染ノミ付き)を着た降伏勧告の使者が街に入ったり、内通者が攻囲側から貰った毛皮(ペスト感染ノミ付き)を持って海経由で街に入ったかもしれません。
いずれにせよカッファの街はペストに侵されました。
籠城戦の最中であるカッファの街は兵士らひしめき合う“密”な状態であり、衛生状態も良好とは程遠い状況です。
敵軍が撤退して勝利を喜ぶ人々に間もなくさらなる恐怖と絶望が襲い掛かりました。
瞬く間に感染を広めたペストはカッファの住人の半数ほどを死に至らしめたのです。
生き残った人々は当然ながら恐怖し、街を捨てて海路から船で逃亡を計ります。
当時の貨物船は、食料を食い荒らし、時に船体に穴をあけてしまうこともあるネズミに常に悩まされており、対策として猫を飼うことも常識でした。それほど船にはネズミがつきものだったのです。
カッファを出港した船にはペストに感染した人、ネズミ、ノミが全てそろって積み込まれていたと。主に陸路で勢力を広げてきたペストですが、ここにきて海路という新たな移動手段を入手して新天地を目指します。
ペスト、ヨーロッパへ
最初に避難民がたどり着いたのはコンスタンティノープル(現在のイスタンブール)。1347年春のことでした。
かつて栄華を誇りキリスト教世界最大の都市であった東ローマ(ヴィザンティン)帝国の首都も、十字軍に破壊されて以降は衰退し、このころはジェノヴァの影響下にあり黒海と地中海を結ぶ港町として機能していたのです。
ついにペストがヨーロッパ上陸を果たしました。
そして災厄は地中海交通網に乗ってヨーロッパ各地へ。
1347年10月、シチリアのメッシーナへ上陸。そこから交易路に沿ってまずはピサ、ジェノヴァを席巻。次いでヴェネツィア、サルディーニャ島、コルス島、マルセイユへ。
1348年に入っても感染はまだまだ加速。地中海交通網によって結ばれた島嶼や北アフリカ沿岸の港湾都市はことごとく感染。さらにヨーロッパにおいても陸路を侵攻し内陸部へ、アルプス山脈以北まで拡大。
1349年はオーストリア、ドイツも超えてネーデルラント(オランダ)へ到達。欧州を陸路で縦断。海路からもフランス経由でイングランドまで。
1350年にはスカンディナビア半島、バルト海沿岸、スコットランドとヨーロッパ全土を黒い死が覆いつくしたのです。
ヨーロッパ社会、世界を変えてしまった黒死病
このパンデミックにより、イギリスやフランスの人口は半分以下になり、ヨーロッパ全体でも全人口の1/3から1/2程度が犠牲になったものと推定されています。
当時のヨーロッパはキリスト教が強大な権威を持っていました。
絶望した人々は神に縋りました。しかし祈っても疫病は収まりません。
ならばこれは神の罰なのだと考えました。スパイクつきの鞭で自らの体を叩き痛めつける自罰を与え許しを乞いました。疫病は収まりません。
それでも他に寄る辺のない人々は教会に押し寄せました。恐怖した聖職者のなかには人々を見捨て逃げだす者もいました。ローマ教皇クレメンス6世もカトリック教会の当時の総本山アヴィニョンから逃げだしました。
もちろん聖職者も死にました。偉そうに教えを説いていた者も、敬虔で皆の信頼厚い者も死にました。
“密”な集団生活を送る修道院などでは文字通り全員が死んでしまうこともありました。信仰が揺らぎ、疑問を感じる者が多く現れました。
当時のヨーロッパは封建領主が支配する荘園が割拠していました。
荘園で働いている農民は領主が事実上所有する農奴です。徹底的に所有物として扱われる奴隷とは違い、多くは日常の細かい行動に大きな制約はなく、財産所有の権利もあります。しかし土地に縛られ移動は制限され、刑罰も課税も領主の思うままです。
もちろん、そんな彼らも疫病の災禍から逃れることはできません。大勢死にました。労働力が足りなくなり荘園は荒廃しました。
フランスとイングランドは100年戦争の最中でしたので戦費調達が優先です。農奴制は強化され農奴の生活はますます厳しくなりました。
反乱が起こりました。ロンドンは陥落しました。パリでは実質的なパリ市長が蜂起しました。フランス北東部でのそれは領主は殺し、女は凌辱、子供は串刺しにして丸焼きにというほどの恨み深いものでした。
しかしロンドン近郊とフランス北東部の反乱指導者は会談の場で騙し討ちにされ、パリ市長は部下に暗殺されました。
指導者を失い瓦解した反乱農民への貴族による報復は苛烈なものでしたが、貴族もまた恐怖しました。大勢の貴族が殺されたのだから。
封建領主たちは農民との妥協を余儀なくされました。農奴制を弱化し権利の制限を緩和しました。もちろん減税も行いました。
これらの結果何が起こったのか。
端的に言えば、カソリックの権威が失墜して、封建領主が弱体化しました。
そして民衆と国王の力が強化されました。
また、ペストの感染を防ぐ様々な対処がなされましたが、そのための答えは聖書にはありません。神は救いの手を差し伸べてはくれません。
そこで人々は「合理的」な思考を求められました。聖書に縛られない「自由」な発想を求められました。
ペスト菌という病原体を発見できていない当時も、黒い死が船からやってくることが多いということは経験上わかっていました。
ヴェネツィアでは、船内に感染者がいないことを確認するため、入港前の40日間は近くの小島に停泊させる法律を施行しました。
仮に感染者がいれば40日以内に船員は死に絶えるので入港してくることはありません。
40日を経て入港してくるのであれば、その船はクリーンです。
ヴェネツィアの言葉で「40」を意味する「quarantena」が、ヨーロッパ各言語の「検疫」を意味する単語(英語ならquarantine)の語源となったのはこのためです。
ヴェネツィア人は、教会では決して教えてくれない検疫という概念を、思考と発想から生み出したのです。
そして合理的な思考、自由な発想は、科学の発展には欠かせないものでした。
封建領主とカソリックの抑圧から解放された人々は都市と商業資本の発達という新たな潮流を作り、合理性や世俗的な思想を肯定しました。
それまでの価値観を否定、古代ギリシャやローマの文化を良しとし「再生」を意味する「ルネッサンス」という気風、文化を謳歌しました。
封建領主とカソリックが弱体化して、国王の権力は相対的に強化されました。近代的で合理的な機能を持つ中央集権国家がヨーロッパに続々と誕生し、本格的に国力を増進させ始めます。
ペストによる打撃を克服し、力を蓄えたヨーロッパ諸国はその力を外へ向けます。
それは主にヨーロッパ内やイスラム世界との戦争という形で消費されましたが、一部は海へと向かいます。
モンゴル帝国によってユーラシア大陸東西の交流が本格化したことで、伝染病だけではなく、多くの南アジアや東アジアに関する情報がもたらされ現実的なビジネスチャンスとして認識されたのです。
それらへ向かう航路が続々開かれ、副産物として新大陸も「発見」されました。
大航海時代、そして植民地獲得競争の到来です。
さらに科学技術の凄まじい発展がその軍事力を圧倒的なものとし、産業革命を経て欧州と他地域との差は比較するのもバカバカしいほどのものとなりました。
ローマ帝国崩壊以降はユーラシアの僻地になり果て、モンゴル帝国には手もなくひねられ、その後は大して関心も払われなかった地域。
そのヨーロッパが世界の中心となる時代が到来したのです。
もちろん、海からの新たな侵略者の出現は、世界にとって脅威となりましたが。
「バベルの塔」などで有名なピーテル・ブリューゲル作「死の勝利」。黒死病の影響から欧州では「死の勝利」「死の舞踏」「メメント・モリ」といった『死』もモチーフにした美術が流行した※クリックで拡大
モンゴル帝国の崩壊
モンゴル帝国が、抵抗した都市の住人は皆殺しにしたという話は有名です。これはほかの都市に対する見せしめ、情報戦略でもあり、自ら積極的に宣伝をしていたようです。
この恐怖の薬がよく効いたため、本来攻城戦が苦手なモンゴル帝国軍が迅速に敵を降伏させ支配地を広げることができたのでしょう。
一方で降伏した都市に対しては非常に寛大な処置を取っています。
旧来の支配者はそのままで、統治機構も方針もそのままということも多く、外交権や主権は取り上げ、軍役と上納金は課しますが、徹底的に支配をするというような姿勢はまず見られません。
お目付け役くらいは置いておきますが、それだけ。場合によっては最強の帝国の庇護下に入り、巨大交易網と繋がれるメリットのほうが大きいかもしれません。
遊牧民ゆえ、土地を支配することに関心が薄く、緩やかな支配となった部分もあったことでしょう。
通常、ランドパワーの勢力は土地の支配に固執し、シーパワーの勢力は交易を重視します。
しかしモンゴル帝国の政策はこの面で明らかにシーパワー的と言えます。
そしてこの緩やかな支配体制は脆さも孕んでいます。崩壊は早かったと言えるでしょう。
どこの王朝もそうであるように、モンゴル帝国でも権力闘争は常にありました。1323年に皇帝が暗殺される「南坡の変」が起こると、その後は内部での抗争が激化。これはゴビ砂漠周辺でペストが広がりを見せていたころです。
ペストが蔓延し政治的にも帝国が混乱すると各ウルス(モンゴル帝国はウルスと呼ばれる、チンギス・カンの子らを祖とする国家の連合)は急速に分裂を始めます。
ペストの猛威に加え、1342年以降は黄河が繰り返し大氾濫を起こしました。
情勢不安となった黄河流域を中心に急速に勢力を伸ばしたのが宗教結社白蓮教。1351年には「紅巾の乱」と呼ばれる反乱を起こし、その首領のひとり朱元璋が建国した明朝によって、モンゴル帝国は中華における支配地を失い、崩壊は決定的なものとなります。
その後も大小多くのウルスが存続しており、中にはチンギス・ハーンの次男チャガタイを祖とするウルス、チャガタイ・ハン国を継承したティムールのように大帝国を築いてしまった者もおり、そのティムールを始祖と仰ぐムガル帝国はイギリスによる植民地化までインドに君臨したのです。しかも「ムガル」とは「モンゴル」の転訛です。
インド亜大陸を支配しタージマハルを建設した帝国の名が「モンゴル」だったのです。
参考 「岡田英弘 世界史の誕生 続 モンゴル帝国は世界を創る」
何をもってモンゴル帝国の滅亡とするかは難しいところです。
その後の世界とペスト
以降もペストは数度のエピデミックを繰り返し、皮肉にも元朝を倒した明朝を滅ぼす一因になったとも言われます。
17世紀のペスト医師の服装。ペストは臭いで伝染すると考え、クチバシ部分にハーブやバラを詰めて臭いを誤魔化した。右手の棒は患者に直接触れないための物※クリックで拡大
1855年、中国雲南省で流行したものを起源に1894年に香港でペストが大流行。
これが海上輸送でアジア各地やハワイ、北米に輸出され、パンデミックとなります。
背景にあるのはやはり流通の発達でした。当時はイギリスがモンゴルと同じく世界帝国として君臨しており、代表的なシーパワーである彼の国は、当然流通網を整備しました。
もちろん流通の発達が悪いわけではありません。文明が発達すれば流通も発達するのは当然です。
今まで行けなかった場所へ行ける。遠かった場所が近くなる。それは素晴らしいことです。
このパンデミックの際、香港では日本から派遣された北里柴三郎らによってペスト菌が発見され、ペストの病原体を特定。以降は研究が進み抗血清による治療法が確立。
ペストは「極めて危険だが治療の手段もある伝染病」となりました。これもまた文明の功績です。
今まで行けなかった場所へ行ける。遠かった場所が近くなる。
これは間違いなく、文明が発展する限り続きます。今後も。
それによってもたらされる恩恵はきっと膨大でしょう。
そしてリスクは必ずついて回ります。次がアフリカの出血熱か南極の古代ウイルスか地球外病原体かは分かりません。
ペストだって根絶はなされておらず、現在も小規模ながら感染者、死者を出しています。
最近の研究では14世紀の黒死病をもたらしたペスト菌と、現在も局地的な流行を起こしているペスト菌にゲノムの差はほぼないということが判明。
つまり14世紀に猛威を奮ったペスト菌が特に凶悪な変異型だったというわけではなく、現在の標準的なペスト菌も、条件さえ揃えば同等の凶悪さを発揮するということです。
そしてその条件はまだ明らかではありません。
ペストはオセアニアを除くすべての大陸で発見されており、げっ歯類に広まっています。
げっ歯類が広くキャリアとなりえるので根絶は困難。
1998年、アメリカで捕獲されたプレーリードックが日本への輸出準備中に大量死しました。原因はペスト。
もちろん中世とは違い、現代では早期に治療を施せばペストの致死率は大きく下げることができます。それでもいわゆる新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)より遥かに高い水準の致死率ではありますが。
(芳士戸亮)