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三国志のインパール作戦?!諸葛亮の北伐、その兵站の謎

三国志のインパール作戦?!諸葛亮の北伐、その兵站の謎

中国三国時代の234年2月、蜀漢の丞相、諸葛亮は魏への侵攻作戦を発動。いわゆる第五次北伐です。

魏の皇帝曹叡は、司令官の司馬懿に「守備に徹しろ。敵の食料がつきて撤退するところを追い打つべし」と勅令を下し、両軍は五丈原で対峙。

諸葛亮は屯田を行いつつ、司馬懿へ女性物の服を贈り「守ってばかりで積極的に戦わないとか無いわ。女かよ」といった、現代ではポリコネ棒で叩かれること確実な煽りで挑発、決戦を促します。
この場合の屯田とは、軍屯とも呼ばれる兵士に開墾を行わせるもので、通常は対陣中に行うようなことではなく、平時に駐屯地とその周辺において実施するものです。敵が引きこもっているとはいえ、ごく小規模なものだったことでしょう。
つまり、曹叡の見立て通りに、蜀漢の兵糧事情はそれだけ切迫していたことがうかがわれます。

この8月、諸葛亮の病死によって蜀軍は撤退。
吉川英治、北方謙三、横山光輝など、多くの名作『三国志』作品が、ここで物語を終えるか、この後の話は大幅に割愛されています。

劉備、関羽、張飛、曹操といった創業世代の英雄たち亡き後、物語第二幕としての『三国志』は、『諸葛亮の北伐』を中心に語られます。
ところでこの『諸葛亮の北伐』ですが、ロジスティクスの観点からは、非常に謎に満ちた軍事作戦なのです。

6年5度にわたって繰り返された『諸葛亮の北伐』の目的は魏の討伐。当面の戦略目標は基本的に漢中を策源地としての長安攻略。

諸葛亮の第一次北伐における動員兵数は約6万、第五次北伐では10万以上と言われていますが、これだけの人間に食料を供給することが出来なければ、軍隊は成り立ちません。蜀漢は兵糧不足に苦しみながらも、何とか北伐事業を成り立たせていたのです。
どの時代でも、軍隊が大量の食糧を調達する方法は大きく分けて2つ。現地で調達するか、後方から輸送するかになります。

現地調達について

古代や中世の軍隊とは、行軍していないと死んでしまう動物です。マグロみたいに。
鉄道もトラックもない時代、軍隊の補給は略奪などの現地調達に頼る側面が圧倒的に高く、しかし同じ場所から徴発できる物資の量には限りがあるため、常に行軍を続けて腹を満たしたのです。

漢中(汉中)~長安(西安)の間にやけに緑の濃い部分がありますね。標高2,000~3,000メートル級の秦嶺山脈が横たわり、三国時代当時は存在しなかったはずの最短ルートを利用しても約400km、疲れ知らずの鉄人兵なら不眠不休で徒歩122時間の道のりとなっております。


秦嶺山脈(新華網より引用)

数万もの人間に食料を供給するには、それが買い付けであろうと略奪であろうと、それに見合うだけの人口を持った都市が必要です。単純に人があまり住んでいない場所には食料の備蓄など有ろうはずがありません。
そしてそれだけの食糧生産力と人口を支えるだけの平野が秦嶺山脈にはありません。

仮に飢餓状態に陥ることを覚悟の上、手持ちの少ない食料のみで秦嶺山脈を強引に踏破したとしましょう。
周王朝の都豊邑、秦帝国の都咸陽とほぼ同じ場所にあり、前漢の都でもあった長安は大都市ですので、そこを抑えれば現地調達は容易でしょう。

楚漢戦争時代の国士無双こと韓信は、漢中を根拠地に秦嶺山脈を越え咸陽(ほぼ後の長安と同じ場所、すぐ隣)を含む渭水盆地を陥れていますが、この時は完全な戦略的奇襲が決まり、民心が敵から完全に離反していたためにできたことです。

諸葛亮の敵は国力で10倍以上とも言われる魏。曹操が築き上げ乱世で他国を征服し成長してきたバリバリの戦闘国家。
第一次北伐では多少油断してくれていたものの、若き皇帝曹叡が自ら迅速に長安まで駆け付けて親征で対応してくる。以降ではなおさら警戒され、敵総大将は曹真や司馬懿といった当時を代表する名将。
蜀漢軍の厳しい食料事情を理解している敵が、悠長に現地調達などそうそういつも許してくれるはずがありません。人の嫌がることを進んでするのが名将です。

また、大量の食糧が貯蔵してある場所と言えば都市ですが、中華の都市とは城と都市が一体になった城市です。「進撃の巨人」で人々が暮らしているアレですね。日本の戦国時代のように、城は落とせずとも城下町で略奪を……というわけにはいかず、城を落とさねば都市を襲うことはできないのです。
出征のたびにそれなりの城市を陥落させねば食料を賄えない。しかも格上相手の戦争で。実際にこれが可能だったのは、入念な準備の上で主力は秦嶺山脈を避け涼州方面を攻め、途中までうまくいっていた第一次、限定的な攻勢で漢中より西方の武都などを落とした第三次くらいではないでしょうか。つまりもともと秦嶺山脈があまり関係ない戦役です。

ただし、「進撃の巨人」とは違い畑は多くの場合、城外にありますので、もしも収穫の時期であれば城を落とさずとも食料調達は可能です。しかし諸葛亮の北伐軍は、常に冬~春に始まっています。当時の主食であったキビやアワや麦が収穫できる秋までずいぶんと時間があります。
さらに、収穫期は自国内でも労働力が必要です。その時期に動員がかかっているというのは、内政上の負担が大きく圧し掛かってきます。

その他の現地調達方法としては、小規模集落などで調達、山中での狩猟や果実の採集といった方法は考えられますが、それで数万の兵を養えるならばニューギニアやビルマで飢える日本兵は存在しなかったはずです。

馬車限界という概念

『馬車限界』とは、物資を馬車で運ぶ場合、馬車に使う人員と馬が食料などを消費するため、輸送距離が延びれば延びるほどに、最終的に目的地まで届けられる物資は目減りしてしまい、通常120マイル(約193km)ほどでゼロになってしまうため、馬車による輸送には距離の限界があるという話です。

『馬車限界』を提唱したクレフェルトの「補給戦」では、17世紀の話として、実戦の補給部隊が200tの小麦粉を運ぶのに600台の荷馬車が必要と述べており、馬車1台あたりの積載量は約330kg。
この馬車が一頭立てか多頭立てか不明ながら、この程度の量は200kmほどの距離を往復する間に馬車そのものによって消費されてしまうというのです。

なお、これは平坦なヨーロッパを中心にした話であって、秦嶺山脈ではより条件が厳しいことは言うまでもないでしょう。
仮に馬を使うことができたとしても、山がちな日本で馬車が普及せず馬の背に荷物を載せていたのと同じような運用形式となったはずです。

さてここで、漢中からほぼ最短距離で渭水盆地へ出ることのできる、228年冬の第二次北伐、陳倉攻めに使用された『故道』に近いと思われるルートを現在の道路で見てみましょう。

ヨーロッパ並みに馬車を使えたとしても、400km近くと補給限界距離を大きく超えてしまっています。漢中から兵站線を伸ばして戦うのは無理がありそうです。

自分の荷物は自分で持とう

それでは各自が自分で食べる食料などの荷物を持って行軍した場合はどうでしょう。
豊臣政権のロジスティクス【戦国ロジ其の5】
で触れたように、玄米ベースで兵士1人あたりの1日に必要な食料は約1kg。
大日本帝国陸軍では普通の情況の諸兵連合大部隊では昼夜約24kmを標準としています。つまり漢中~陳倉まで32.5日ほどで往復できる計算。
陳倉で二十日あまりの攻防を行っていますので、必要な食料はざっと55kgほど。
冬の秦嶺山脈越えを『普通の情況』と言うほど大日本帝国陸軍も非人間的ではない、きっとたぶん。なので実際にはこれをかなり上回る日程となり、そのぶん重量は増えるはずです。

現代の屈強な兵隊さんは、50kg以上の装備で行軍を行うことがありますが、これはボディーアーマーなどの身体に密着した負担の少ない装備も併せてのもの。蜀漢の兵士は食料だけでこの重量です。

さらに、ピクニックに行くわけではないため、武器や防具は必須。正史の裴松之注には雲梯や衝車を使って攻め寄せた旨の記述がありますので、これら巨大攻城兵器も分解して運んで行ったはずです。


攻城兵器の雲梯(wikipediaより引用)

冬山に行くのならテントや防寒着、暖房や調理に使う燃料も必要でしょう。

秦嶺山脈の道中は『蜀の桟道』と呼ばれる道なき道となっており、場所によっては下写真のような断崖に棒と板で作っただけのような道(?)もあります。
もちろん写真は現代の物なので、3世紀のそれはもっと粗末な物だったはず。


当時は通行自体が命懸けだった(旅チャイナ・中国旅行大全より引用)

数万の大軍が通る際には、補強や修理が必要な事態も頻発したことでしょう。そのための資材は必須です。

目一杯少なく見積もった食料だけでも無理くさいのに、これら全部というのは少々非現実的なようです。

王道は水運輸送

三国志には水軍の話は多く出てきます。特に呉関連で。『南船北馬』とはあちらこちら旅にして忙しい状態の事。中華の南の方では船で、北の方では馬での移動が盛んなことから出来た言葉です。
しかし、中国北部にだって黄河のような大きな河川があり、船舶での輸送は行われていました。

古来より水路は、効率的な大量輸送の手段です。先述の馬車では、積載量に対する馬車そのものの物資消費量が大きいため、輸送距離に制限がありました。しかし船舶の場合、積載量が大きく、速度が速く、消費する物資が少ないという圧倒的な利点があり、遠くまで補給線を通すことが可能です。

そして秦嶺山脈にも川は流れているのです。
地図を見れば秦嶺山脈から漢中や陳倉の近くまで流れる川が確認できますし、『蜀の桟道』は川沿いの断崖絶壁に作られた道です。直通は無理でも水路を利用できる部分はあるのです。

ただし、この場合も漢中側の河川を利用することはできても、陳倉側は難しいでしょう。陳倉側で造船設備がある場所は、当然ですが魏の支配下にある都市です。自国の都市と水運で繋がっていない魏の支配下にある都市へ、船を出すことはできないのです。

また、中国北部ではなぜ陸運が主流なのでしょう。水運のほうが効率が良いのに、主流にならないのには、それなりの理由があるのです。
中国北部の河川は、そもそも南部のそれに比べて水量が少ないのですが、降雨量の関係で冬になるといっそう少なくなってしまいます。

近年では砂漠化、過度な水資源利用によって、水の流れが途中で途絶えてしまう『断流』が黄河で起こりました。断流まで至らずとも中国北部では、もともと河川の水量が極端に減ってしまうことはあったのです。そうなると、安定した物流を担うことはできません。


(断流で干上がった黄河中国科学院科普云平台より引用)

水量が減ってしまう冬になると、もうひとつの致命的な問題が発生します。凍結です。


凍結した黄河(中国網より引用)

温暖な南部では起こらないようなことも、寒冷な北部では起こってしまいます。
水運での兵站確保も限定的なものとならざるをえないでしょう。

木牛!流馬!びっくりどっきり秘密兵器の投入!!

「三国志演義」には「木牛流馬」という、謎のギミックを搭載した輸送兵器が登場します。
孔明驚異のメカニズム「木牛流馬」はフィクションの産物ですが、第四次で「木牛」が、第五次で「流馬」が投入されたのは正史に記載のあるところ。

しかし、これらの正体は全く分かっていません。
正史の注釈には説明らしきものがあるにはあるのですが、木牛については脚舌頭が何とやらと『ちょっと何言ってるか分からない』ことばかり書いてあります。分かるのは『載一歲糧、日行二十里、而人不大勞』、つまり『1年分の食糧を載せて、1日に20里進み、少人数で動かせる』らしいことくらい。
流馬に至ってはパーツの寸法らしき数字が羅列してありますが、全くの意味不明です。
とりあえずどちらも四輪や一輪の手押し車やソリだったとする説がまあ有力です。


こちらはただの手押し車(wikipediaより引用)


戦争においてどのような実用的利点があるのかは不明(エキサイトニュースより引用)


フィクションの孔明なら作れそう。彼は未来予知も天候操作もできてビームだって出せる

ただ手押し車やソリは、秦嶺山脈で運用するのに向いているとはあまり思えません。
車輪というのは基本的に悪路にも斜面にも弱いものです。アルミフレームもサスペンションもラバータイヤもブレーキパッドも存在しない時代では尚更です。
ソリなんて砂漠のような場所ならまだしも、ゴツゴツした山道ではあちこち引っかかって使い物にならないでしょう。


秦嶺山脈ってこういう所ですよ!(wikipediaより引用)

「流馬」については、漢字からしてあるいは小型の帆船のようなものであればどうでしょう。
運送量は限られるものの、ある程度は狭く浅い上流まで入って行くことも、マストなどは分解して人力で運ぶことも不可能ではありません。
漢中側の上流から陳倉側の上流までは担いで運ぶのです!もちろん積荷もですよ!

我ながらナイスアイディアですが、とてもそんな力業で運べる物資で賄いきれるとは思えません。

ジンギスカン作戦

先述の『馬車限界』を簡単に伸ばす方法があります。
馬が輸送中に物資を消費してしまうなら、往復をさせずに馬を使い捨てるのです。そうすれば馬が消費する物資は片道分のみなので、『馬車限界』を単純に倍の距離に伸長することができます。
さらに戦地までたどり着いた馬はそのまま食料にすれば一石二鳥!理論上は物資を消費し尽くしてしまう400km先まで、1頭分の馬肉を届けることが可能です。
馬より足が遅く踏破能力は低いが燃費が良い牛などを利用するのもいいでしょう。

……この作戦は20世紀に入って実行に移されました。
幅数百メートルの河川を歩いて渡り、2000m級の山を越えて……いわゆる「インパール作戦」です。数万頭の家畜を引き連れてインドを攻めた日本の将兵9万。家畜の半数は川に流され、険しい山岳を踏破できず、そもそも家畜の餌も用意できずという有様。多くが飢えと病に倒れ、ビルマへ帰還できたのはたったの1万数千とも言われています。

そんな悪名高きインパール作戦でも、諸葛亮の北伐作戦に比べれば距離は近く、不足していたとはいえ自動車だって投入されています。20世紀の話ですから。なんだかずいぶんマシな条件に思えるのです。
もちろん3世紀の話でも、同じように家畜で物資を運び、その家畜も食えば兵站問題は解決、なんてことにはなりません。そんなことで山越え作戦が達成できないことくらい、インパール作戦前の日本陸軍上層部にだって分かっていたことです。じゃあなんでインパール作戦実施したかって?バカだったからでしょう。

しかし、インパールもどきの北伐を断行した諸葛亮が「鬼畜」「無茶口」「史上最悪の愚将」「死ぬ死ぬ詐欺」「牟田口廉也」「河辺正三」などと罵倒されることはまずありません。
それは紛いなりにも作戦を成立させ、撤退時は死屍累々の白骨街道などということもなく、おうちに帰るまでが戦争ですをやってみせたからです。

諸葛亮の北伐はどうやって兵站を確保したのか

結論としては分かりません!
おそらく、上にあげたような工夫は様々に凝らしていたでしょう。
実態は多くの工夫の合わせ技だったのだろうと思います。

また、劉備が存命の頃の外征では、その兵站は諸葛亮が取り仕切っていました。
劉備亡き後、諸葛亮が前線で軍を指揮するようになった、つまり北伐を行う段になった際、後方の兵站を誰が担うのかは大きな問題となったことでしょう。

諸葛亮による北伐の時期の蜀漢の兵站は李厳、楊儀といった人物が担っています。
李厳は諸葛亮と共に劉備から後事を託され、諸葛亮からも「(劉備を打ち破った名将)陸遜に匹敵する」と評価されたほどの人物。
楊儀は軍編成や兵站についての計画立案が迅速で、物資の調達と管理を一手に担いました。

この2人はどちらも非常に優れた人物でしたが、後にその能力面ではなく、人格面の問題に端を発して罷免されています。
李厳は腹に棘がある野心家で、郷里の者ともうまくやれていない。
楊儀は傲岸不遜かつ狭量で、同僚や上司とトラブルになることも度々。
そんな人物に兵站を任せたのは、それだけ兵站事情が苦しく、能力があるのであれば人格面には目を瞑らざるを得なかったのかもしれません。

諸葛亮の北伐とは「インパール作戦失敗しました。撤退する分の兵站はなんとか確保してあって被害は最小限です。今回は大した成果が上がっていませんが、来年またやります」といった狂気じみたものです。
動員規模でインパール作戦とほぼ同等。山脈踏破という似た条件。距離的にはよりハード。科学技術には1700年以上の隔たり。それを人口7000万以上の大日本帝国ではなく、人口100万足らずの蜀漢が繰り返しやってのけていたのです。

諸葛亮の死後も、その意志とイデオロギーとノウハウは姜維ら次世代へと引き継がれます。もちろん、このような無茶は国力を疲弊させ、蜀漢を衰退させました。

漢の帝位を簒奪した魏の正当性を否定し、皇族たる劉備が漢を継いだ蜀漢。魏の打倒こそが国是であり存在意義であった超軍事偏重国家は、263年、司馬懿の子である司馬昭によって滅ぼされます。諸葛亮の死から29年後のことでした。

(芳士戸亮)

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