メンタルヘルスや出産育児への支援手厚く、業界の人材確保後押しも
国内初となるスタートアップやベンチャーキャピタル(VC)で働く人を対象とした健康保険組合「VCスタートアップ健康保険組合」の設立準備を進めている一般社団法人VCスタートアップ労働衛生推進協会の吉澤美弥子代表理事はこのほど、ロジビズ・オンラインのインタビューに応じた。
吉澤氏は、スタートアップは投資家などから常に成長を求められるプレッシャーが強く、メンタル(精神)面で不安を訴える従業員が相次いでいるほか、通常の企業より若い人が多いことから、新健保の組成でメンタルヘルスの維持や出産育児への支援を手厚く図ることができるようにしたいと思いを説明。
福利厚生の充実をスタートアップ業界の人材獲得につなげ、日本経済を変革し得るスタートアップをバックアップしていくことに強い意欲を見せた。併せて、新しい健保の事務作業をDXや電子化で効率化し、保険料を下げることにもチャレンジしていきたいとの考えを示した。
物流業界もAIやIoTといった先進技術を駆使し、非効率や人手不足などの課題を解決することに挑むスタートアップが相次ぎ登場している。新健保の誕生は物流業界にとっても大きなプラスとなることが見込まれる。吉澤代表理事のインタビュー内容を紹介する。
吉澤代表理事(VCスタートアップ労働衛生推進協会ウェブサイトより引用)
330社が加入申し込み
――吉澤さんはもともと、独立系VCの「Coral Capital(コーラルキャピタル)」でスタートアップ支援に携わってこられました。そこからスタートアップの健康保険組合設立に動かれた経緯を教えてください。
「きっかけは2021年に実施した新型コロナウイルスワクチンの職域接種でした。当時、ヘルスケア領域のスタートアップCAPSのCOO(最高執行責任者)を務めていて、今はわれわれの推進協会で理事COOに就いている金谷(義久氏)らと協力し、Coral Capitalを含むVC45社とその投資先のスタートアップ1100社を対象に合同職域接種を実施しました。延べ500人以上のボランティアの方々に協力いただき、トータルの接種回数は4万8000回を超えました。非常に反響が大きく、スタートアップの役員や人事労務担当の方などから、こういった1社単独ではできないような取り組みをもっと実施してほしいという要望をたくさんいただいたんです。ボランティアに依存せず、しっかりと長い目線で、持続可能な形でスタートアップの方々をサポートできるような組織を作りたいと感じました」
「スタートアップは創業してから歴史が浅かったり、事業開始当初は投資が先行するために赤字が続いたりといった特有の事情がネックになり、どうしても単独で健康保険組合を立ち上げることが難しく、現状は中小企業を主な対象としている全国健康保険組合(協会けんぽ)に加入しているケースが多いです。ただ、協会けんぽは保険料率が約10%と高い上、被保険者の平均年齢が約46歳のため、中高年の方々の健康問題への支援が中心になり、20~30歳代が多いスタートアップが抱える健康面の課題とはどうしても合わない部分が出てきます。そこで、スタートアップの実情に即した健康保険組合を立ち上げる構想にたどり着きました」
「今年の6月に政府が新しい資本主義のグランドデザインと実行計画の改訂版を閣議決定しましたが、その中にはスタートアップの労働環境整備の一環として、スタートアップにも対応した健康保険組合の立ち上げを図ることが明記されました。これは非常に、われわれにとって追い風になりますね。私自身は昨年12月から3カ月間、在籍していたVCのリソースを使って新健保の立ち上げ準備を進めた後、今年3月に退職し、4月から今の協会に移り、フルタイムで関わっています」
スタートアップ向けのワクチン職域接種の様子(Coral Capital提供)
――協会のメンバーはどういった顔ぶれですか。
「理事COOの金谷は大学在籍中からデジタルギフトサービスを手掛けるスタートアップの立ち上げに参画し、2017年には『健康的で豊かな生活の実現』を目指すCAPSの取締役COOに就任し、先ほどもお話しした通り、コロナワクチンの職域接種をリードしてくれました。理事CSO(最高戦略責任者)の平井(良樹氏)は大学で日本の社会保障制度を学び、三菱商事のヘルスケア部門でベンチャー投資を経験した後、健保の運営支援サービスなどを手掛けるホワイトヘルスケアを設立しました。私自身、大学で看護医療学部に在学し、社会保障制度を学びました。ヘルステックのビジネスメディア立ち上げなどにも関わりました。東京大学系のVC社長を務めている植田浩輔氏も理事に名を連ね、CAPSグループでコロナワクチンの接種会場運営・健康経営に従事してくれた郭理曉さんもサポートに当たってくれています」
――現在の準備状況はいかがですか。
「7月時点でVC27社とその投資先のスタートアップ330社が新健保への加入を申請されました。日本の独立系VC45社の半分以上が賛同を表明してくださっていることになります。スタートアップは小売業のインターネットスーパー立ち上げ支援ソフトを手掛ける10X(テンエックス)、電動キックボードのシェアサービスのLuup(ループ)、食材のオンライン直売所『食べチョク』を運営するビビッドガーデンなどが名を連ねています」
――健保が発足する前の時点で300社以上が加入を決めているのはかなり盛況な印象を受けます。
「当初想定していたのは本当に創業間もない会社さんだけが加入しようとされるのではないかなということだったんですが、シード(創生期)からレイター(安定期)まで様々な規模のスタートアップが加入を申し込まれています。従業員が100人を超えるような会社からも加入の希望が出ています。VC目線では非常に良いスタートアップでも、一般的な健保の審査基準にはなかなか当てはまらないことがありますから、われわれの想定以上にニーズが大きいということが分かりました」
「健保を作る際、国が定めた条件、ルールがあり、その1つが対象となる企業をしっかり定義してくださいということでした。スタートアップは業種ではありませんし、それこそ物流もあれば美容系、技術系など多岐にわたります。業種自体をまたいでしまっているため、非常に定義が難しい。議論を重ねた末、まずVCを業種として定義した上で、そのVCから投資を受けている企業を関連会社と同様の取り扱いにするということで厚生労働省の了承を得ました」
健保設立に賛同、支援しているVC(VCスタートアップ労働衛生推進協会提供)
オンライン診療など展開目指す
――協会けんぽの活動とスタートアップが抱える健康課題はそぐわない部分があるとのことでしたが、具体的には?
「先ほどもご説明した通り、協会けんぽは平均年齢が高いため、その役割として生活習慣病をしっかり予防していくことが重要になります。一方、スタートアップの従業員で主力となっている20~30歳代の場合はメンタルヘルスが重要になってきます。協会けんぽが出されているデータでも、20~30歳代に支払った傷病手当金のうち、5割前後は精神疾患が原因のものです。全体の平均が約3分の1ですので、若い年代の被保険者が多くなることが見込まれる健保はこの点が課題になると思います。私自身、VCにいた立場で投資先のスタートアップの活動を見ていた時も、メンタルヘルスの問題は非常に大きいと感じていました。これは米国の調査ですが、スタートアップの起業家は特にうつ病や双極性障害といった気分障害の生涯有病率が一般の人より高いとの結果が出ています」
「メンタルヘルスの問題については、スタートアップの場合、従業員数が50人未満のケースが多く、その場合は法律でも産業医の配置や衛生委員会の設置などは努力義務となっています。スタートアップは人的リソースが不足していることなどから積極的に取り組んでいるとは言い難いのが実情です。特に会社を立ち上げてから間もないスタートアップへの支援が最も求められます。どうしてもスタートアップは浮き沈みが激しい業界ですし、うつ病などへの対策を手厚くして業界全体の課題解決を図っていきたい。併せて、若い従業員が多いことから出産育児への支援も配慮が必要です。福利厚生を拡充することは貴重な人材を集める上でプラスになります」
――今のところは2024年にも健康保険組合設立が承認される見通しのようですが、その後はどのようなスケジュールを想定していますか。
「設立時は、創業から3年以上経過し、VCの出資を受けている企業を対象とする予定です。当初は6000人ほどが被保険者となる見通しです」
――新たな健康保険組合設立は保険料率を下げることも大きな狙いとしてあるようですね。
「その点はスタートアップの皆さんからの期待が大きいところです。どの程度の保険料率になるかは実際、医療費の規模や被保険者の数などによりますから、現状では明確なことは申し上げられないのですが、他のIT産業や金融業などの健保の保険料率を参考にして、業務の効率化などを進めていきたいと思います」
――健保は医療費の増大などで財政が悪化し、解散や合併に追い込まれるケースが続いています。健保財政の健全化に向け、業務効率化でお考えのことはありますか。
「ITリテラシーが高いスタートアップ向けの健保ならではだと思いますが、健保の運営に関する業務の電子化やデジタル化を進めていきます。その点は健康保険組合への加入を希望されているスタートアップの方々からの要望も非常に強いんです。まず、短期的にニーズが大きい、従業員が入退社する際などに企業が行う届け出や申請の業務と被保険者がご自身で行う給付関連の申請をオンラインで完結できるようにすることを想定しています。他にも給与等級が変更された場合の月額変更届や産休・育休の取得・終了申請など、企業が健保に提出しなければいけない書類が多数あります。現状は紙やCD-ROMなどで郵送する必要があるのですが、この部分も既存のSaaSのサービスと連携することでオンライン提出を実現していきたいですね」
「また、スタートアップ自身、既にAIやビッグデータ解析、VR(仮想現実)といった先端技術を駆使して医療や健康管理の効果を高める多様な『デジタルヘルス』を展開しています。そうしたものと連携し、オンライン診療やウエアラブル端末から取得したデータを分析したヘルスケアのアドバイスなど、取り組めることは多くあると思います」
――健保設立はVCにとっても意義がありそうですね。
「そうですね、VCもスタートアップの成長には不可欠ですが、スタートアップと同じく業務が繁忙なところもあります。VCは金融業の健保に加わればいいのではないかという声もありますが、他の金融機関と違って実店舗を展開していないなど、事業形態から難しい側面もあります。VCの場合、お勤めになっている方々の平均年齢はスタートアップより若干高くなる傾向はありますが、実際に起業された経験のある方が多かったりするため、健康課題はスタートアップと共通しています。VCにとっては投資先のスタートアップの業績が自分たちの運用成績などに直結してきますし、スタートアップ成長を支える責任もありますから、スタートアップの健康課題解決はVCにとっても非常に重要なテーマです。全てのVCに参加してもらえるのが理想です」
(VCスタートアップ労働衛生推進協会提供)
(藤原秀行)