若き日の極秘ミッションが彼を変革の道に導いた
※本文中、「流通科学大学」を「流通経済大学」に訂正させていただきます。ご迷惑をお掛けしたことを深くおわび申し上げます
物流を専門に扱う日本唯一の博物館、物流博物館(東京都港区高輪)が今年2月から5月の約3カ月間にわたって開催した特別展示会は、今日の物流業界の発展を支えてきた基礎を築く上で多大なる貢献をした、ある人物に焦点を当てていた。
その人の名は、平原直(ひらはら・すなお、1902~2001年)。専門誌の発刊などを通じ、戦前から戦後の長きにわたる激動期に人間を荷役の苦しみから解放しようと尽力し続けた。その功績を知る人たちは皆、彼を「荷役近代化の父」と称える。単に機械化を推し進めるのではなく、機械化で失われる人々の技や姿を語り継ごうとしたことも特筆すべきだ。
特別展示会が終わっても、彼の業績は末永く語り継がれるべきものなのは言をまたないところだろう。ロジビズ・オンラインは物流博物館や流通経済大学など関係各位のご協力を得て、計3回にわたり、“不世出の巨人”・平原の生涯を紹介する。その足跡をたどるのに当たり、物流博物館の特別記念展用パンフレットの内容を参考にした。関係各位に厚く御礼申し上げる(敬称略)。
平原直(昭和27年・1952年撮影、物流博物館提供)
「それは正しい産業の姿と云えるのか」
「日本の通運事業が、この文字通りの膏汗(こうかん)労働の上に、利潤を求めて繁栄しているものならば、果してそれは正しい産業の姿と云えるであろうか」
平原が昭和29年(1954年)に記した『荷役現場を守る人々』(荷役研究所)の一節だ。昭和5年(1930年)、彼が20代だったころ、街角で年老いた男性が500キログラムもの荷物を手車に載せ、歯を食いしばり、目をむき、全身苦痛に満ちた様子で引いていく姿を見て、衝撃を受けたのだ。それは当時としては一般的な物流現場の姿だったが、まさに荷役ではなく「苦役」であった。
「愛すべき通運現場の人々を、あの肉体消耗的な苦役の姿から救わなければならない」(同書より)。その決意が、平原を荷役の機械化へと駆り立てることとなった。
平原が物流の世界を本格的に歩みだしたのは昭和4年(1929年)。大手運送事業者が合併して誕生したばかりの国際通運に入社してからだ。同社は後の日本通運、現在のNIPPON EXPRESS ホールディングスとなる。
旧帝大卒業の平原は、当時の国際通運では異色の存在だったが、彼は大卒者としてはただ1人、現場への配属を希望。その願い通り、トラックを管理する自動車部に配属となる。平原はここで、職人気質の運転手や助手たちに触れ、徒弟制のような運転技術の習得方法など、「小運送」と呼ばれたラストマイルの通運事業の最前線を経験、知識とノウハウを身に着けていった。
東京の神田区三崎町(現千代田区神田三崎町)にあった国際通運の自動車部と社有車(昭和4年・1929年撮影、物流博物館提供)
入社したころのりりしい平原(物流博物館提供)
昭和5年には、雑誌『運輸』に「自動車業経営合理化の基準」を連載するなど、後の精力的な活動を早くも予感させるような仕事ぶりだ。そして、同年の初夏には、入社間もない彼に、国際通運の内部で大きな仕事を任されることになった。合同運送会社4社が手掛けている集配業務の実態を調べ、再合同(再編)を含めた作業合理化を検討する極秘ミッションだった。
本来の目的を隠し、現場の作業実態をつぶさに見て回った平原。そんな彼が直面したのは、100~200キログラムの荷物も日常的に担ぐ荷役作業員の姿だ。皆、当たり前のように作業していたが、作業員らが裸になると、肩には重荷を乗せ続けたことで大きなこぶができ、腰痛のため腹ばいになれない人も少なくはなかったという。
前述の、苦役から人間を解放したいと思い立ったのも、まさにこうした、物流業界で歩み始めた直後の経験だった。だからこそ、心の奥底に深く刻み込まれ、彼を変革の道に向かわせる原動力となったのだろう。
トラックこそ次の時代を切り拓く輸送機関
平原は昭和5年、この調査結果をまとめた報告書を提出。会社側から具体的にどのように業務を改善すべきかの案を出すよう求められ、翌昭和6年に改善案を提出。それは、当時の欧米の最新事情を基に、小運送を組織的な制度に編成するとともに、自動三輪車やトラック、セミ・トレーラーなどを活用した機械化を進め、作業を高度の能率化するという、非常に斬新な内容だったという。
調査に使っていたノート。細かい書き込みから彼の実直な人柄と誠実な仕事ぶりがうかがえる(流通経済大学物流科学研究所 平原直物流資料室蔵資料より)
だがしかし、理想に燃える鼻息の荒い若者の意見は、残念ながら当時の国際通運社長らにはその意義を理解してもらえたものの、関係者が猛反発、一部を除いて実現には至らなかった。あまりにも時代の先を行き過ぎていたことが不運だった。だが、この経験が平原に、日本だけでなく海外にも目を向け、視野を広くして考えることの重要性と面白さを気づかせたことは間違いない。
この改善案をまとめるに当たって海外の事例を調査、米国で脱着可能な荷台「デマウンタブルボディー」の活用、車両の運行管理を一元化する情報管理法など、米国で実際に取り入れられていたトラック運行効率化の最先端技術に触れ、トラックが物流を大きく変えていく可能性を確信。荷車をトラックに置き換えることで、苛烈な苦役から人間を解き放てると思ったのだ。
このころは東京合同運送へ出向していた平原が出会ったのが、米国の研究者、G・ロイド・ウィルソン氏の著書だった。ウィルソン氏はライバルとみなされていた鉄道とトラックの機能を結び付け、物流を改革する「Coordination(整合化)」を提案。大量生産・大量消費時代が到来する中、鉄道とトラックを使い、より効率的に商品や製品を運ぶ流通革新を果たそうという主張に、平原は強く惹かれたのだ。トラックこそ次の時代を切り拓く輸送機関!と。
その思いから、昭和15年(1940年)に民間で初めてセミ・トレーラーを実用化するなど、トラックを物流に生かそうと精力的に活動。戦時下だったため、活動は次第に困難を極めたものの、あきらめることはなかった。出向が終わって本体に戻った平原は、ドライバーを育成する「自動車要員錬成所」を開設したり、戦時下の輸送力低下で混乱が続く状況を打開しようと、効率的な輸送方法などを研究する「小運送総力研究所」に参加したりと、その勢いは止まらず、努力が戦後に花開いていくこととなる。
東京合同運送に出向していたころの平原(右から2人目、昭和7年・1932年ごろ撮影、物流博物館提供)
自動車要員錬成所の建物前で撮影された卒業写真(年不詳、物流博物館提供)
(中編に続く)
(藤原秀行)