文禄・慶長の役での海上補給路【戦国ロジ其の6】【令和元年特別企画】

文禄・慶長の役での海上補給路【戦国ロジ其の6】【令和元年特別企画】

秀吉の野望 ~海外進出編~

秀吉の晩年、ここでも信長のプランをなぞる彼は、海外進出を実行に移しました。『文禄・慶長の役』です。

大内氏滅亡によって日明間の勘合貿易は途絶えており、後期倭寇などによる密貿易のみが行われている状況で、その倭寇も明側による海賊弾圧と秀吉による海賊停止令発布で衰退してしまい、細々としたものになっていました。

こういった状況ですので、戦争をしても貿易への悪影響は最小限に済みます。
明の征服(唐入り)を目論む秀吉は、その属国である李氏朝鮮に服属を要求、拒否されたことから朝鮮へ軍を送ります。

世界最強?!武士陸軍

戦国時代の100年以上(もっと言えばその前の鎌倉~室町期も含め400年以上)に渡って内紛を繰り広げてきた日本軍はやたら戦争慣れしており、鉄砲などの軍備は完全に朝鮮軍を圧倒していました。当時の日本は世界一の鉄砲保有国で、世界有数の軍事国家です。

一方の朝鮮は朱子学に染まりきっており、儒教思想的な大義名分を盾に、官人たちが東人派(改革)と西人派(保守)に分かれて権力闘争真っ最中です。
ちなみに官人登用でも最も重要なのは儒学の点数でした。
何を決めるにも儒学的な名分を重んじ「孔子いわく……」とやっていたので、そこに合理性は必ずしも重視されませんし、武人や技術者は軽んじられます。

すったもんだの末に派遣された通信使が帰国して、西人派の官人が戦禍の危機を訴えますが、その頃優勢であった東人派の官人が「大げさに騒ぎすぎ」と言えば、その意見があっさり採用され、戦争準備はほとんど行われませんでした。

そういった情勢の1593年、日本軍が朝鮮へ上陸。防戦の準備のなかった朝鮮軍相手に連戦連勝、破竹の進撃を繰り広げます。

日本側の戦争目的は『唐入り』です。朝鮮を鎧袖一触蹴散らして明への侵攻路を確保するつもりでした。

先駆けるは微妙な武将

一番隊を率いるは小西行長。堺の商人、小西隆佐の次男として生まれ、商売のために宇喜多直家と何度か会ううちに気に入られて武士となった人物で、その後に秀吉の直臣、さらに肥後南半国の大名となりました。
舟奉行として水軍を率いたり肥後国人一揆鎮圧に参加したりといった経験はありますが、これといって経験豊富で優れた軍司令官と言える人物ではありません。

二番隊を率いるは加藤清正。刀鍛冶、加藤清忠の倅として生まれ、秀吉が母方の親戚であったことから小姓として仕え、その後に肥後北半国の大名となりました。
賤ヶ岳の戦いでは『賤ヶ岳七本槍』の1人に数えられる活躍をしたと言われますが、これは秀吉が子飼いに箔を付ける目的で行った宣伝に過ぎず、実体が伴わない話とされています。実際、清正はこの七本槍の話題を出されることを嫌ったようです。
清正の功績は主に財務官僚としてのものであり、戦場では後方いることが多かった人物で、小西行長と同じく肥後国人一揆鎮圧に功績はありましたが、やはり経験豊富で優れた軍司令官と言える人物ではありません。

当時の日本には経験豊富で実績も知名度も抜群、戦国時代を生き抜いたバリバリの武闘派大名達が多くいました。
代表的なところで西国だけでも長曾我部元親、島津義久、島津義弘、鍋島直茂、立花宗茂、黒田如水、小早川隆景、藤堂高虎などなど。
さらに東国には徳川家康、前田利家、蒲生氏郷、伊達政宗、最上義光、真田昌幸などなど。
この辺りと比べれば小西行長、加藤清正なんて少なくとも軍事面では如何にも頼りない。ぽっと出なので家臣団まで頼りない。
しかし、こんな2人でも安々と快進撃できてしまうほど、朝鮮軍は弱かった。

上陸地点である釜山周辺の朝鮮水軍はパニック状態に陥り戦わずして消滅。
隣接管区の李舜臣ら他の水軍も救援に動かず。
鉄砲を撃ちかけられれば戦意喪失、拠点防衛すれば数時間で陥落し、野戦を仕掛ければ簡単に伏兵戦術に嵌められる。いや、まだ戦って惨敗した連中はマシで、指揮官が逃げて軍が霧散なんてことも。

朝鮮の首都、漢城府は開戦から21日目にして陥落。
加藤清正は朝鮮を縦断して女真族(オランカイ、後に清帝国を建国)の土地(満州)へまで簡単に進出し、明への侵攻ルートを探ったりしています。
この侵攻速度はあまりに速く、補給線が伸び切って支障をきたすほどでした。


小西行長、加藤清正の進路(Wikipediaより

膠着、和平交渉、撤退

しかし明軍が朝鮮側の援軍としてやってくると状況は変わります。
対明戦も緒戦こそ小西行長でも蹴散らせる程度の相手でしたが、李如松が率いる精鋭部隊がやってくると苦戦。フランキ砲などの大砲による攻撃を受け、平壌を放棄して撤退。

宇喜多秀家ら日本軍主力は敗退してきた小西勢を迎え入れると戦線を漢城まで後退させて再構築、明軍も一旦は勢いに乗ったものの、建て直した日本軍に敗北(碧蹄館の戦い)すると開城まで後退します。

この後、明側は朝鮮における兵糧調達が捗らず、日本側も漢城の兵糧庫を明軍に焼かれ、双方兵糧不足に陥ります。朝鮮各地で戦闘は継続しつつも、日本と明の間で和平交渉が行われ、グダグダのグチャグチャの末に決裂。
この頃に日本では秀吉自身を被災する大地震(慶長伏見地震)が発生、その他にも震災(慶長伊予地震、慶長豊後地震)があったことから改元を実施、文禄から慶長となります。

和平交渉が決裂したため、秀吉は再侵攻を命じます。今度の作戦目標は侵攻路の確保よりも朝鮮の制圧に重きを置いたものでした。
朝鮮各地を侵攻後は日本式の城郭を築いて恒久的な領土化を行うのです。
この戦略は概ね成功し、朝鮮、明軍の抵抗に合いつつもそれを排除して朝鮮に強固な支配地を構築。秀吉が宣言している、更なる大軍を再派兵しての大規模攻勢に備えていました。

しかしそこで秀吉が死去。五大老や五奉行を中心とした協議の結果、朝鮮からの撤退命令が下りました。
現地の大名達には秀吉の死去は秘匿され、戸惑いの中で撤退戦が行われたのです。
こうして『文禄・慶長の役』は終結しました。

実は完全に機能していた海上輸送路

この『文禄・慶長の役』でも兵站奉行を務めあげたのは当然、長束正家です。

当初、中華への侵攻ルートとしては台湾経由や黄海を通っての海洋ルートも検討されましたが、これらは断念されています。
当時の日本の技術では長期の航海や、沿岸部以外を安全に進むことは非常に難しかったのです。
そこで大陸への航海が最短距離で済む朝鮮半島からの陸路侵攻を採用せざるを得ませんでした。
逆に言えば、沿岸部であれば水上補給路を機能させる自信があったのです。
ただ、朝鮮のインフラの劣悪さは日本側の予想を大きく上回るもので、陸路輸送に関しては大変な苦労を伴うものとなったようです。

一方で制海権の確保、海上輸送路の構築と維持に関してはほぼ破綻なく達成されています。
日本の一部や韓国では、李舜臣が亀甲船を率いて日本の海軍を打ち破り補給線を破壊したと信じられているため、認識が異なってしまいますが、少なくとも当時の記録では海上輸送路に問題が発生して補給が滞ったという事態は読み取れません。
朝鮮水軍によって大打撃を受けたということもありません。
『鳴梁海戦』では日本軍8000人が戦死したと韓国映画などでは語られますが、実際には日本軍がこの海域の制海権を獲得しており、そのような損失の記録もありません。
海上ではほぼ常に日本軍が優勢だったというのはほぼ間違いない史実です。

また、朝鮮軍が日本の想定以上に弱かっただけでなく、朝鮮という国自体が想定以上に貧しかったため、食料の現地調達が極めて困難ではあったようです。これは明軍にとっても同じです。
商業も未発達で、商人を利用したロジスティクの構築も不可能、仕方なく兵糧は日本本国からの輸送頼りとなり、むしろ水軍は当初の予定以上に活躍したと言えるでしょう。

未完成で物資が運び込まれる前の段階の城が攻められ物資不足になったり、進行速度が速すぎて補給が追い付かなかったり、明軍に倉庫を焼き払われて困窮したりという事態はありましたが、これらは兵站の問題というよりは前線の戦術上の失態です。

また、『文禄の役』における総大将は宇喜多秀家。『慶長の役』における総大将は小早川秀秋。1599年に実施を宣言していた大規模攻勢の総大将は福島正則を予定。
いずれも秀吉の親戚筋や、それと同等の子飼いですが、十数万規模の“日本軍”の総司令官としては格も経験も能力も何もかもが不足している人物です。

彼らに『九州征伐』や『小田原征伐』を下回る兵数を預けて大陸を問題なく制圧できると安心するほど豊臣秀吉という人物がお目出度い頭脳をしていたのでしょうか。
『大明』は島津や北条と比べても劣るような弱小国という認識だったのでしょうか。

秀吉は自身も大陸に渡り、総指揮を執るつもりでいましたが、これは徳川家康や石田三成らに止められ先延ばしとなっていたと言われています。
その時は、名護屋や釜山に在番はしても、本格的に参戦することはなかった東国の大名などを含めた数十万規模の大軍勢を編成するつもりだったのではないでしょうか。
どんなに少なくとも『九州征伐』や『小田原征伐』の20万を下回る規模ということはありえないはずです。

そしてその大遠征軍を養うだけのロジスティクの目途が立っていたと考えるべきでしょう。もちろん、目途が立つことと成功することは別ですので、それが実施された場合どうなっていたのかは今となっては分かりません。

しかし、それでも豊臣政権、長束正家はここに来て、商人にも現地調達にも頼らず、少なくとも十数万の軍を海の向こうへ送り兵站を支えるロジスティクの構築という日本史上初の快挙を成し遂げたことは事実と言えるでしょう。

(芳士戸亮)

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