武田信玄の棒道と甲州法度次第【戦国ロジ其の2】【令和元年特別企画】

武田信玄の棒道と甲州法度次第【戦国ロジ其の2】【令和元年特別企画】

武田信虎の家中統制と追放

武田氏は伝統ある甲斐源氏の棟梁にして、室町幕府の甲斐守護の家柄です。

そんな名門武家も、戦国時代の前半は内乱に明け暮れて過ごします。
バラバラだった武田家と甲斐の国を、今川、北条、諏訪といった外敵の侵入とも争いながら武力でまとめ上げたのが武田信虎(信玄の父)でした。

信虎は本拠地を石和から甲府へと移転、有力国人を城下へ集住させました。
これは統治機構の再編成と中央集権化を意味し、権限を強化した武田家にとっては本格的な外征も可能な戦国大名としての転機となります。

家中を統制できるようになったことで、各家臣の率いるべき兵数や装備物資の準備を上から定めることができます。
統治方針や税制もある程度統一され、税収も安定しやすくなります。

これまでの

「配下引き連れて出兵するぞ。
え、小山田と板垣は来ないって?甘利は行けたら行くって?
兵数?そんなもん集まってみなきゃわからんズラ。
兵糧はそれぞれが持ってくるだろうけど、みんな事情も違うし税収もあんまり読めない。あとは行き当たりばったりに現地調達すれば良いでしょ」

といったものから

「各家総勢6000人の兵と400石の兵糧を用意して武蔵へ出兵するぞ。
板垣の割り当ては槍90、弓20、騎乗10、その他30な。
あ、槍は短いのはダメだからな。兵糧も10石持って来いよ。
現地の商人にも物資は工面させてるから2ヵ月は問題なく作戦行動が可能でしょ。
足りないようならは略奪して足しにするかな」

というように、それなりに計算が立つようになったのです。

これにより信虎時代の武田家は関東などへの遠征を活発に行うことが出来るようになりました。
武田をさらに強化するため、信虎は中央集権化を強力に推し進めます。

しかし中央集権化は家臣の権力を奪うことになりますので、強い反発を生みます。
自らの権益を守りたい、取り戻したい板垣信方や甘利虎泰といった重臣達は、信虎の嫡子である晴信(後の信玄)を御輿に担いで信虎を追放してしまいます。抵抗勢力の勝利です。

信玄時代の始まり

家督を継いだ晴信(以降、信玄と呼称)の権力基盤は弱く、更なる中央集権化を進めることはなかなかできませんでした。

信虎時代は関東へ積極的に出兵を行っていました。
関東は肥沃で広大な平野ですので、非常に魅力的な土地ではありますが、北条氏、扇谷上杉氏、山内上杉氏、古河公方足利氏といったライバルがおり、特に新興の北条氏は強力で更なる中央集権化もなしに打倒できる相手ではありません。
逆に甲斐は山ばかりで使える土地はほとんど甲府盆地のみ。しかも日本住血吸虫という非常に危険で厄介な寄生虫が蔓延しており、貧しく国力が乏しいのです。

そこで信玄は対外政策を転換。甲斐と同じく物産の乏しい山国で、妹の嫁ぎ先である諏訪氏など比較的小規模な勢力が割拠していた信濃攻略を目指します。
高遠頼継と組んで妹婿の諏訪頼重を殺し、さらにその高遠頼継を攻め滅ぼし、武田氏と同族(甲斐源氏)の信濃守護小笠原長時を打ち倒すなど、乱世の君主としての器量、軍略と非情さを証明してみせました。

信玄の信濃攻略は概ね順調に進み、武田家は領土を拡大します。
しかし、領土を拡大すればするほど、本拠地(甲府)から戦地への道のりは遠くなり、兵站の負担は増大していくこととなります。

兵站の効率化には軍全体の一元管理が手っ取り早いのですが、そのためには中央集権化を進めなければならず、そしてそれは家臣団の反発が大きく急には進められません。

また、当時から関東などでは商人に物資を用意させて戦地で補給を受けるという方法が大規模にとられていました。
これなら自前で用意する物資は最小限。金子だけ持っていけば基本的な食料などはなんとかなりますし、金子が尽きても大名クラスであれば信用取引も可能な場合が多かったことでしょう。

しかし、信玄が侵略している信濃は山深い土地。商業が充分に発達しているとは言い難く、物資輸送はかなりの部分自前で賄う必要があります。

そこで信玄が採った代表的な政策が『甲州法度次第(こうしゅうはっとのしだい)』という法整備や『信玄の棒道』に代表されるインフラ整備です。

甲州法度次第は信玄家法、甲州法度、甲州式目などとも呼ばれる武田家の分国法です。

鎌倉時代に制定された武家政権による法令『御成敗式目(ごせいばいしきもく)』や駿河今川氏の『今川仮名目録』に影響を受けて作られ、土地の所有、家中の揉め事、他国への書状、徴税、訴訟などについて定められています。
また、最大の特徴として、この法令には信玄自身も拘束されるというものが上げられます。

絶対君主として強権的に中央集権を実現できれば良いのですが、当時の武田家は豪族の寄り合い所帯から抜け出すことができていません。
そこで、当主信玄のさらに上位に『法律』を置くことで『法による支配』を目論んだのです。

中央集権は実現できずとも、ある程度は統制の取れた集団として武田家を改革することに成功した信玄は、信濃北部を支配する信濃最強の戦国大名、村上義清と激突、さらにその信濃北部を巡って越後の長尾景虎(後の上杉謙信)と数度の『川中島合戦』を戦います。
川中島は景虎(以降謙信と呼称)の本拠地である春日山城からは比較的近いのですが、信玄の本拠地である甲府からはかなりの距離があります。しかも甲斐、信濃は山道が多く、道のりは険しいものでした。

この不利を縮小するため、信玄はインフラの整備に乗り出します。

川中島エリアの支配、防衛拠点として海津城を築くと、城代として寵臣の春日虎綱(高坂昌信、高坂弾正として有名)を配置。海津城と甲斐の間を『信玄の棒道』で結びます。
棒道とは『棒のように真っ直ぐな道』という意味です。当時の甲斐信濃としては非常に直線的で、馬2頭が並んでも余裕を持って通れる広い道路でした。

なお、甲府から川中島までの直線距離が約110kmですが、山がちな甲斐信濃では本当の意味で直線的に進むことは困難です。現代の高速道路などを利用した道のりでも150kmほどはあります。
トンネルや近代的な橋などの技術がない当時は、棒道の整備後でもそれ以上の道のりだったことでしょう。


現在も残る「信玄の棒道」(ほくとナビより)

さらに棒道の要所要所には狼煙台や隠し牧を配置しました。
狼煙台はリレー形式に繋ぐことで、敵の出現を迅速に甲府まで伝えることができます。
隠し牧に馬を飼うことで替え馬を容易にし、移動&輸送を円滑にするだけでなく、物資の集積地としても機能しました。
信玄は山国の問題点を少しでも克服するため、軍用高速道路、輸送手段と物資の集積拠点、通信ネットワークを整備したのです。


甲斐・若神子城の狼煙台(ト⁠リ⁠ッ⁠プ⁠ア⁠ド⁠バ⁠イ⁠ザ⁠ーより)

晩年の信玄

また、晩年の信玄は同盟国であった今川氏を攻め駿河を奪います。このことは三角同盟の関係にあった北条氏康を激怒させ、今川氏だけでなく北条氏を完全に敵にまわしてしまいます。さらに同じく同盟関係にあった織田氏、その従属的立場の徳川氏との亀裂を決定的なものとしてしまう切っ掛けとなりました。

何より問題なことに今川から嫁を貰っていた嫡男の義信が今川攻めに反発、譜代の重臣で義信の傅役でもあった『元祖赤備え』『甲山の猛虎』飯富虎昌や親今川派国人らとともにクーデターを目論みます。

このクーデター計画は飯富虎昌の弟である飯富昌景(後の山県昌景)の密告によって露見、義信と虎昌は自害。その他関与した者たちも粛清され一応は落着。
そして嫡男が死んだことで、他家に養子に出していた諏訪勝頼(四男)を呼び戻して後継者にすることになりました。

勝頼は諏訪頼重の娘に信玄が産ませた子です。
攻め滅ぼし殺した妹婿、諏訪頼重の娘(諏訪御料人)に自身の子を産ませ、その子に諏訪家を継がせる……実に信玄らしくえげつない策ですが、つまり勝頼は初めから諏訪家の後継者として生まれて来たのです。

武田譜代家老の駒井高白斎が著したとされる『高白斎記』には、勝頼の兄達の幼少期に関する記述が多くある一方、時代的にあっていいはずの勝頼の幼少期に関する記述はありません。
その他の資料からも幼少期の勝頼の事柄はほとんど分かりません。

あるいは、勝頼は武田家において養育されることはなく、幼少期からずっと諏訪家で養育されてきたため躑躅ヶ崎館には住んでおらず『高白斎記』には記述がないのかもしれません。
だとすれば他の兄弟達とは違い、勝頼だけが露骨に『よその子』として育てられたことになります。

資料が無いので勝頼の正確な生年月日、幼名、生誕地、乳母や傅役が誰なのかなど、何も分かっていません。
昔のことなので資料がないの仕方ないのですが、豊臣秀吉や松永久秀のような出自の怪しい人物でもない大大名の子で大きな役割を果たした人物としては、ここまで何もかも不明なのは珍しいのではないかと。

また、武田の男子には通常、名前に武田家の通字である『信』の字が与えられます。信玄の諱は晴信です。有名な弟には信繁、信廉、信龍がいます。
息子達には勝頼以外皆『信』の字が付きます。義信、信親、信之、盛信、信貞、信清というように。彼らの中には仁科盛信、葛山信貞といった他家を継いだ者も含まれます。
しかし勝頼に与えられたのは諏訪の通字である『頼』のみ。初めから武田の子としてではなく、諏訪の子として扱われていたことがうかがわれます。
『信頼』じゃダメだったのかな……?いろいろ不都合ありそうか……。

そんな『諏訪四郎勝頼』を、正当後継者であったはずの義信の死によって、急遽後継者として信玄は指名します。次男は盲目、三男は早逝であったため、四男にお鉢が回ってしまったのです。
『信』の字もない『よその子』で信濃先方衆に過ぎなかった勝頼では、豪族の集合体である武田家をまとめ上げることは誰が考えても難しいことでした。有力な者ほど勝頼を軽く扱ったことでしょう。
『義信事件』で後継者を失ったことは信玄の死後に禍根を残し武田滅亡の遠因となるのです。

海こそ戦国時代の物流の主役

三国同盟に対する裏切り行為は義信事件とも併せて信玄の失策とよく指摘されますが、そうまでして彼が欲しかったものが海です。
甲斐、信濃など武田領国には海がなく、しかし容易く奪える海は近隣にはなかったのです。

当時の陸上物流ルートはいくら整備したとしても、現代のアスファルト塗装路のようにはいきません。雨が降ればぬかるむし、崖は崩れるし、増水で河川は渡れません。
平野だらけのヨーロッパとは違い、山岳だらけの日本では馬車のような運搬手段もほとんど用いられません。駄馬の背に荷物を積むのです。ですので大量輸送には大量の人夫と馬匹が必要になります。
人夫と馬匹も食料を消費するので、移動距離が延びるほどに、実際に届く物資は目減りします。
そうなれば当然、商業の発展も難しいものがあります。山だらけならなおさら。もちろん兵站もしかりです。

しかし、海上輸送であれば大量輸送にはうってつけです。少数の水夫でも、潮と風の力があれば船は動くのですから。
港と海上交通を持っていないというのは、国家として致命的であることを信玄はよく理解していたが故に、多少の無理は承知で駿河へ侵攻したのでしょう。

駿河を獲得して海へ出ることで『武田家という国家』は『山国』からの脱却を初めて果たせるのです。ロジスティクスを強化して大軍の動員が容易となるでしょう。商工業の発展により鉄砲の大量配備も可能となるでしょう。物流ルートが多様化すれば『塩止め』のような経済封鎖のリスクも軽減されます。

中央集権化と武田3代

武田信玄という武将はロジスティクスを重視し、小荷駄(物資輸送、兵站)部隊の指揮は可能であれば自ら執りたいほどであると述べたと言われます。もちろん総大将が小荷駄部隊の指揮官をやっているワケにもいきませんが、名将と名高い内藤昌豊などを小荷駄奉行に任命するほどに力を入れていたのは事実です。

これらの政策は中央集権化を進められない故の苦悩から生まれた工夫の結果という側面もあり、仮に中央集権化が可能であれば、より効率的なロジスティクスも構築できたことでしょう。

子の武田勝頼の代では、長篠の敗戦後に織田家へ対抗するために新府城を築いて本拠地を移転、中央集権化を進めます。祖父信虎がやっていたことと同じ政策ですね。

中央集権化は間違いなく必要な政策でした。しかし案の定と言うべきか、家臣団の反発が大きく、凶作が続いたことと併せて武田家崩壊を加速する結果となってしまいました。

中央集権化は戦国大名家が成長する過程でないと難しいのです。いままさに領土を拡張しているイケイケの状況であればこそ、多少の不利益があっても、恐怖とそれ以上の利益に対する期待で人はついてくるのです。
中央集権化に関しては蘆名、尼子、大内など、多くの大名家が失敗しています。
長篠で惨敗して求心力の低下した武田家では、仮に織田軍侵攻による滅亡がなくとも困難な事業であったことでしょう。

(芳士戸亮)

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