【独自】「苦役から人間を解放せよ」 荷役近代化の父・平原直の足跡を追う(後編)

【独自】「苦役から人間を解放せよ」 荷役近代化の父・平原直の足跡を追う(後編)

そして「物流」という言葉を生み出した

「荷役近代化の父」と評される物流業界の巨人、平原直。彼の足跡を追う旅の最終回となる第3回は、戦後、パレチゼーションの普及にこだわり続けるなど、近代化の取り組みを荷役から「物流」全体に広げていく彼の姿を取り上げたい。

今では普通に浸透している物流という言葉が使われるきっかけを作ったのも平原だったという。まさに彼は日本の物流業界にとって忘れがたい恩人だ。同時に、彼が果たせなかった夢についても、あらためて触れていきたい。


平原直(昭和27年・1952年撮影、物流博物館提供)

戦後の近代化前の荷役現場(いずれも物流博物館提供)

宮崎県日南市での貨車押し作業。人が肩で貨車を押している(昭和24年・1949年3月)


門司港の「テングドリ荷役」と呼ばれていた作業。10キログラム程度の石炭の入ったかごを手送りで素早くリレーして船に積み込む。いかに作業を早く済ませるかを追求した結果生まれた(昭和30年・1955年ごろ)

フォークリフトに「天にものぼる思いと云ってよいほど感動」

中編でも触れた通り、通運荷役研究所(のちに荷役研究所)と機関誌『機械荷役』『荷役と機械』という足掛かりを得た平原は、まさに水を得た魚のように活動し始めた。同誌に記事を書くだけではなく、他の業界メディアからの寄稿要請に応え、自身で著書も刊行。八面六臂の活躍を見せた。

そして、この時期に彼が終生追い求めたテーマの1つとなるパレチゼーションに出会う。昭和25年(1950年)に発表した論文「荷役方式の近代化とパレチゼーション」で初めて本格的に荷役近代化とパレチゼーションの意義を唱えたとみられる。   

平原は戦後、欧米の雑誌を通じ、フォークリフトやパレチゼーション、物を1つの単位にまとめて運び保管するユニット・ロードの考え方に触れ、念願の「人間の苦役から解放」につながる可能性を見いだした。論文を発表する前の昭和24年(1949年)には、神戸港でペプシコーラが倉庫から商品を貨車に積み込む際にフォークリフトで作業しているのを初めて目撃。スムーズに荷物をさばいていく光景に、平原は「天にものぼる思いと云ってよいほどの、大きな感動であった」と当時の心境を振り返っている。

そんな平原に、さらに心強いパートナーが現れる。日本通運の和歌山・新宮支店長だった高本亀太郎だ。高本も戦争中、牛車をトレーラーに見立て、牛に複数の牛車をつないで作業効率を最大限高めることに成功するなど、「改革の人」だった。そんな2人が意気投合しないわけがない。昭和24年、平原は高本に会い、パレチゼーションの考え方を詳しく詳細、高本もすぐに理解し、さっそく新宮支店で実践した。


昭和25年ごろの高本(左)と平原(物流博物館提供)

フォークリフトとトレーラーを活用した雑貨のパレット積みに取り組み、昭和26年(1951年)の末ごろには完成、人が肩に重い荷物を乗せる旧来のような過酷な労働は現場からほぼなくなり、作業効率は4倍にも高まったという。平原の思いが、1つの完成系になったのだ。その効果を一目見ようと、新宮支店には多くの見学者が足を運ぶようになったそうだ。平原と高本が満足げにその光景を見る姿が容易に想像できる。

新宮支店のパレチゼーションの様子(いずれも昭和27年・1952年ごろ撮影、物流博物館提供)

牛車のトレーラーシステムから発展し、牛車の荷台を改造して薪ガス自動車でけん引する新宮支店のトレーラー


新宮支店で木材をパレチゼーションの原理で荷役するフォークリフト


新宮支店でのパレチゼーション作業


フォークリフトの爪に取り付けたローラー・アタッチメント。木材が滑り降りるため、円滑な積み込みなどが可能になった

その後も平原は精力的に執筆や講演に取り組み、荷役近代化の種をまき続ける。昭和31年(1956年)には、大阪にある国鉄の梅田駅(貨物駅)の改良工事の計画立案に高本とともに参加。最新の荷役機器を使い、作業に要する人手を減らせる斬新なドーム型の「新3号ホーム」が完成した。


梅田駅新3号ホーム(昭和35年・1960年ごろ撮影、物流博物館提供)

「荷役・包装一体論」を説く

高度経済成長に伴う生産物の流通量増大と人件費上昇は、荷役の機械化を後押しする大きな要因となり、新宮支店で成功したフォークリフトなどの導入も徐々に各地へ広がっていく。ただ、まだ問題は残っていた。当時は包装自体の重量がかさみ、荷姿もばらばらで非効率の極みだった。荷役だけ改善しても、包装が旧態依然としていてはどうしようもない。そのことを痛感した平原は、「荷役・包装一体論」を説くようになる。

時はまさに、日本生産性本部の視察団が米国からPhysical Distribution(P.D.)、いわゆる「物流」の概念を持ち帰ったころだった。視察団は報告書で、「包装・荷役・輸送・保管」の分野で構成されると説明。その考えをベースに、平原も荷役~包装~保管~輸送をトータルで考えるべし、と主張する。平原の活動のフィールドが荷役から飛躍的に拡大しようとしていた。

東京オリンピックが開催された昭和39年(1964年)4月、政府の経済審議会・流通小分科会の専門委員となった平原は、当時の通商産業省(現経済産業省)がP.D.を政策として進めようとした際、官僚からP.D.の訳語を尋ねられ、当時一部で使われていた「物的流通」という言葉を紹介。それがそのまま政策用語として採用され、「物的流通」という言葉の普及の契機となった。「物的流通」は次第に「物流」と略され、人口に膾炙することになったようだ。


日本で初となる「物的流通」政策を報じた記事(日本経済新聞 昭和39年・1964年7月19日朝刊一面より、 流通経済大学物流科学研究所 平原直物流資料室提供)


標準パレットであることを示す旧国鉄の金属票(上・昭和35年、1960年 中・昭和36年、下・昭和37年)。国鉄もパレット利用に乗り出したが、その後はコンテナ重視の方針に転換、この金属票も廃止された(流通経済大学物流科学研究所 平原直物流資料室提供)

平原は、海外の事例を基に、パレットを多くのユーザーが相互に使えるようにするシステム「パレット・プール」を導入し、荷物の発送から到着まで同じパレットに載せたまま輸送できる「一貫パレチゼーション」を実現することに情熱を燃やす。だが、平原は通産省や日本商工会議所などをも動かし、パレット・プールの実現に賭けたが、結局は実を結ばなかった。そこであきらめることなく、1971年に創業した日本パレットレンタルの初代会長として、標準パレットの普及に取り組み始めた。

2022年の現在、トラックドライバーなどの「物流クライシス」を防ぐための物流効率化の有効な手段として、パレットはかつてないほどの注目を集める。しかし、様々な規格のパレットが混在し、パレット間での手荷役による積み替えなど、課題は残る。平原の思いはまだまだ道半ばだ。平原が今、生きていたら、何というだろうか。自分のやるべき仕事は山ほど残っている!と奮起、奔走するような気がする。

戦争への悔恨から「善隣物流」展開

平原は荷役事情視察のため、海外へも積極的に出かけている。荷役研究所が昭和42年(1967年)から毎年行った海外視察団派遣では、その大半で平原が団長を務めた。第1回の視察は英国やオランダ、フランス、スイス、西ドイツ、ノルウェー、スウェーデンの7カ国・13カ所をめぐる精力的な視察だ。

平原は近隣諸国と物流を通じた連携・協力で友好親善の関係を発展させようとした。彼はそれを「善隣物流」と称し、自分が成すべき仕事として「通運の近代化」「荷役の近代化」「物流論・パレットプール論」に続く第4の段階と位置付けていたという。その背景には、日本が太平洋戦争に突き進んでいったことへの悔恨の念があった。晩年には、通運の歴史をたどることに精力を注ぎ、貴重な資料を数多く収集するなど、最後までスケールの大きな人だった。


当時の中国・周恩来国務院総理(中央)と面会した平原(右端から3人目)ら(昭和31年・1956年5月10日撮影、物流博物館提供)


スイスで開催された世界パレット会議で講演する壇上の平原(昭和47年・1972年撮影、物流博物館提供)

その生涯の大半を「人間の苦役からの解放」実現に捧げた平原。コンサルタント的な仕事はせず、現場の人たちの役に立つ情報発信や意見交換の場となるよう雑誌発行と講演活動を続け、大学などで教育に携わり人材育成にも汗を流した。まさに現場の人だった。

足跡を追った今、ふと思う。もし平原直がいなかったら、日本の物流はどうなっていただろうか?と。そもそも、物流という言葉自体、別のものになっていたかもしれない。人間は苦役から解放されていただろうか?彼が成し遂げてきたことは、本当に意義が大きい。だが、彼が数十年取り組んできても、なお実現していないことも少なくない。「2024年問題」などを前に、持続可能な物流の在り方が問われている今こそ、平原の偉業を振り返り、遺言を受け継いでいくことは大きな意味を持っていると言えそうだ。

(藤原秀行)

平原直に関する特別展示会(終了)などの情報はコチラから。特別展の図録も購入可能(物流博物館ホームページ)
記事作成に当たり、資料などの面でご協力いただいた物流博物館、流通経済大学をはじめとする関係各位に、心より御礼申し上げます。誠に有難うございました。

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