豊臣政権のロジスティクス【戦国ロジ其の5】

豊臣政権のロジスティクス【戦国ロジ其の5】

日本史上最高のサクセスストーリー

豊臣秀吉が織田に仕官する前のことはよく分かっていません。
大政所と呼ばれた人物が母親であろうことは分かるのですが、その大政所がどういった人物なのかも、秀吉の父親が誰なのかもはっきりしません。
足軽、農民、行商人、土木技術者など出自については諸説あり、最初は今川家臣の松下氏に仕えたようですが、事績は詳細不明。
なお、この頃はまだ木下藤吉郎という名でしたが『木下』という苗字も親から受け継いだものではなく、妻(ねね、おね、高台院、北政所)の母方の実家のものではとも言われています。
いずれにせよ高い身分の生まれではないことは確実でしょう。

1554年に織田に仕えると、清洲城の普請などの土木工事で頭角を現し、信長に気に入られたのか出世街道をばく進。
1565年の美濃攻め真っ最中の頃に、有力武将として資料に『木下藤吉郎秀吉』の名が初めて一次資料に登場。
1572年、織田家の大幹部である丹羽長秀、柴田勝家にあやかって『羽柴秀吉』と名乗る。
1573年には長浜城主に。
1577年には毛利攻略の任務を帯びた方面軍司令官に。

長浜城主の時点で12万石の立派な大名クラスです。低い身分での仕官からわずか19年でえらいスピード出世です。

本能寺の変で信長が斃れると、山崎の戦いで明智光秀を倒して主君の仇を討つという大きな軍功を立てます。

そのことで発言力を強めた秀吉は、織田政権の新体制を決める清洲会議でも主導権を握り、その後の工作と併せて実質的に家中の多数派領袖となります。
本能寺の変が起きた1982年の暮れには主筋である信長三男、織田信孝討伐の軍を起こし降伏させることが出来るまでに織田政権を掌握してしまいます。

翌年には、反秀吉派の織田家宿老格、柴田勝家と滝川一益が決起。
信孝も再起したので降伏の際に人質にとっていた信孝の生母と娘を処刑。
賤ケ岳の戦いで反秀吉派の主力柴田勝家を破り、勝家は正室であるお市の方(美女として名高い信長の妹)と共に自害。信孝も自害。
この短い間に信長の息子、孫、妹、妹婿、側室を死に追いやっているので、織田の血に対する遠慮はほとんど感じられません。
なお一益は蟄居処分となり、後に呼び戻されて秀吉のもとで働いています。

いよいよ怖いもの無しの秀吉。
さらに翌年には、信長次男の織田信雄を挑発。信雄は徳川家康(信長の同盟者だが、実質は家臣同然)と結んで対峙します。小牧・長久手の戦いです。
羽柴軍は約10万、織田徳川連合軍は約3万と圧倒的な兵力差ですが、奇襲作戦に失敗するなどした秀吉は手痛い損失を被ります。
しかし信雄の領地伊勢を攻撃してビビらせ単独和平(実質降伏)に成功すると、名分のなくなった家康も次男(後の結城秀康。長男は既に死亡)を秀吉の養子(実質人質)に差し出して講和(実質降伏)。

完全とはとても言えないものの、一応は信勝、家康に勝利したことで、織田政権という枠組みの中に秀吉の政敵と言えるほどの存在は事実上消滅しました。
本能寺の変からここまでわずか2年半弱という早業です。

小牧・長久手の戦いが終わると従三位権大納言に叙任。従三位からの官位は『公卿』と呼ばれ、公家社会では別格の意味を持つもので、武家で叙任されることはそうそうありません。信長の時代に織田家で任官されたのは信長・信忠親子のみです。
この公卿叙任によって秀吉は自らを信長と同格、信長の後継者としての姿勢を明確に世に示したと言えるでしょう。

その後は四国征伐など信長の残務処理をこなしつつ、1585年に関白に叙任。
1586年には正親町天皇から豊臣の姓を賜ります。この時から最も一般的に知られた名称『豊臣秀吉』となります。
なお『豊臣』は『源』『平』『藤原』『橘』などと同じ本姓ですので、『とよとみ“の”ひでよし』と読みます。

本姓とは、便宜上名乗っている苗字(武田とか北条とか伊達とか)とは別の正式な姓のことです。
朝廷などと交わす公文書ではどの武将も

武田勝頼→源勝頼(みなもとのかつより)

北条氏政→平氏政(たいらのうじまさ)

伊達政宗→藤原政宗(ふじわらのまさむね)

というように本姓を名乗ります。

これまで摂関家の地位を独占してきた『藤原』を優越する『豊臣』は朝廷内で別格の地位として扱われ、豊臣の祖となる秀吉は藤原鎌足(中臣鎌足。藤原の祖。『大化の改新』の立役者とされる)などと同等以上の存在ということに。

このように日本史上例のないサクセスストーリーを体現してみせた豊臣秀吉ですが、彼もまたロジスティクスを非常に重視した人物です。

えっぐい兵糧攻め

秀吉の得意戦術とされるものに兵糧攻めが上げられ、織田家臣時代の三木城攻めや鳥取城攻めは特に凄惨なものとして有名で『三木の干し殺し』『鳥取城の渇え殺し』と呼ばれています。

これらの秀吉流兵糧攻めは、ただ輸送路を封鎖するだけではありません。

まず作戦の前段階として、商人を使いターゲット周囲で流通している米を、相場より高い金額で買い上げます。これは詐欺でも何でもない本物の『美味しい話』ですので、地元の商人は喜んで近場の米を集めてきて売ります。豪農も売ります。
あげくターゲットとなった城の備蓄米も売りに出されます。

次に『織田に逆らった領主の民は百姓でもなんでも皆殺し』といったような噂を流します。信憑性を持たせるために、実際に村のひとつふたつは皆殺しにしてみせたかもしれません。
すると住民たちは恐怖に駆られ、ターゲットの城へと逃げ込みます。

ここからはいつもの通り、織田軍お得意の包囲封鎖です。
敵が進攻してきて慌てて兵糧を集めようにも、周辺の米は全て買い上げられてしまっています。備蓄も売ってしまったのでろくにありません。
しかも住民たちが大量に逃げ込んできたため、食料消費は跳ね上がっています。
こうして“効率的な”兵糧攻めが行われた三木城、鳥取城では、米などの備蓄食料、軍馬や雑草まで食い尽くした籠城側が人肉まで食らったと言われています。

鳥取市教育委員会が鳥取城跡マスコットキャラクターを公募した際、次点に入選した作品が良くも悪くも話題になったことがありました。
問題となったのは『かつ江さん』という、ゆるくないキャラ。いや、ゆるキャラなのか?明らかに渇え殺し(かつえごろし)から名前をとっており、飢えて衰弱した女性がカエルを持っているというもの。
「悲劇を茶化している」「同名の女の子が虐められる」「イメージが悪い」といった批判を受け、たったの3日で公開停止となりました。


批判を受け公開停止となった『かつ江さん』©鳥取市教育委員会

鳥取城関連のエピソードでは『鳥取城の渇え殺し』が圧倒的な知名度ですので、こういったキャラクターが入ってくるのも自然のように思えます。
悲惨な歴史に対して過度に蓋をするのも、気に入らないからといってクレームを入れて排除しようとするのも、批判が怖くて簡単に尻尾を巻くのも如何な態度かと。

しかし、実際の『鳥取城の渇え殺し』では、これよりもっと悲惨な状況だったかと思います。カエルのような動物性タンパク源はかなり早い段階で食い尽くされたはずで、仮に奇跡的に捕まえても、逃げ込んだ領民女性では兵士や他の男性らに奪われてしまうのがオチでしょう。
むしろ籠城末期の危機的な状況になれば、口減らしのために追い出されるか殺されるか、あるいはあまり想像したくないようなことに……であったと思われます。
なお追い出される場合も、城から出た途端に攻囲側に撃ち殺される運命となります。

ここまで徹底したところで、兵糧攻めは時間がかかる戦法であることに変わりはありません。事実、三木城の開城までは22ヵ月もの長期戦となりました。
敵の城を封鎖しようと思えば、とてつもない大軍と物資が必要となります。

また、秀吉は『中国大返し』『美濃大返し』に代表される機動戦も得意としていました。この機動戦を実現させるためには、足の遅い輜重部隊などを連れて行軍するわけにはいきません。
予め各拠点に物資を集積し、インフラ網を整備しておく必要があります。

これらの作戦を実現するだけのロジスティクスこそが織田軍団の強みであり、その強みを最も生かした戦い方を得意とした司令官が羽柴秀吉だったと言えるでしょう。

兵站のスペシャリスト、長束正家

信長の下でロジスティクスの重要性を大いに学んだ秀吉が、自らの豊臣政権で地方の大勢力相手に実施した大規模遠征が2つあります。『九州征伐』『小田原征伐』です。
この2つの戦いで、豊臣軍は20万規模の大軍を編成、本拠地の畿内から見れば遥か遠方の九州、関東へ遠征しています。
そこまで大規模な遠征は当時誰も経験がありません。

もちろん歴史を振り返れば、大軍の遠征という例はいくつもあります。
源平時代の木曽義仲は信濃で挙兵すると、各地で平家側の軍を破り、源頼朝に先駆けて数万の軍勢で上洛を果たし、ほぼ半年程度京に駐屯しています。
南北朝時代の北畠顕家は奥羽から10万余騎(誇張の数字でしょうが、かなりの大軍ではあったのでしょう)で西上作戦を実施。途中で鎌倉を攻略すると関東一円から軍を集め、50万(誇張のry)に膨れ上がった兵力で畿内へ侵攻、足利尊氏配下の軍勢と戦っています。
戦国時代前夜(あるいは幕開け)の応仁の乱では東西計20万以上の軍勢が11年もの長きに渡って、決して広くはない京で合戦を続けました。

これらは最も時代の近い応仁の乱でさえ豊臣政権よりも100年以上も昔の話で、インフラ、商業、農業、行政と全てが急速に発展した戦国時代末期よりも未発達だった頃の出来事です。
秀吉の時代にできない道理はありません。
しかし、これらの例は何れも周囲にも大きな被害を与える、自身にとってもリスキーな“無理のある遠征”でした。

木曽義仲の大軍が駐屯を続けることで、京は深刻な食糧難に陥りました。木曽軍に『各地に用意した物資集積地と兵站線』などという高尚なものがあるはずもなく、結果、民心を失い朝廷からも見限られた義仲は源義経ら率いる源氏の同族に滅ぼされました。
北畠顕家の軍が通った後はペンペン草も生えていない有様で、逆に言えばそこまでの徹底した略奪を行うほど困窮していた北畠軍は、勢いが長く続くことなく高師直に敗れ、顕家は21歳で命を落とします。
応仁の乱は複雑怪奇なので割愛。京都は壊滅した。

このように大雑把な現地調達前提の行き当たりばったりな作戦では長期戦は戦えません。短期ですら怪しいでしょう。戦後の統治にも支障をきたします。
そこで豊臣軍はきちんと補給物資と輸送手段を用意してから遠征を行うという、この規模の軍としては日本史上おそらく初めての方法を採用します。

もちろん、織田軍でも補給物資と輸送手段を用意して戦争を行うという戦略は採用されていました。それが織田軍の強みでもありました。
しかし20万という大軍を1つの戦線へ送り出すようなことはありませんでした。ましてやこれほどの遠征です。織田軍ではせいぜい関東の一部まで滝川一益軍団が進出していた程度。織田軍のノウハウを生かしつつ、更に発展したドクトリンの構築が求められました。

そもそも戦国大名家では、軍勢と同じく兵糧も基本的には家臣の自前です。兵糧だけではなく輸送手段も同様です。
もちろん、これらを集めて小荷駄隊(輸送部隊)を編成、運用したりはするのですが、基本的に自己負担の『兵糧自弁』であることに変わりはありません。

『九州征伐』『小田原征伐』ともなると、遠隔地の大名にとって兵站の負担は莫大なものとなり、輸送や保管、管理の面でも大きな混乱は必至です。
そこで豊臣軍は兵糧弾薬の戦地近く策源地への輸送、集積を中央政権が担うという大胆な戦略を採ります。

各地に蔵入地(直轄地)を設け、それぞれ物資の備蓄を行います。
堺や博多の商人とも結びつき、彼らにも物資調達の準備をさせます。無論ビジネスとして。
いざ戦となれば各地の蔵入地から水軍などが備蓄物資を運び、さらに商人たちも全国からかき集めた物資を運び込みます。
戦地には市が立てられ、様々な物資が売られます。ここで兵糧や武器弾薬を購入すれば良いので、大名達の負担は激減。安心して戦闘に取り組めます。
購入する資金がなければ貸し付けます。これにより大名達を借金漬けのがんじがらめにできて一石二鳥。

陣や城といった策源地へ、商人が物資を運び込むということ自体はそれ以前から当たり前に行われていましたが、それは統制の取れたものではありませんでした。
20万の兵力を養うほどの規模で行うとなれば、軍隊の行軍と相まって道路は渋滞。予定された物資はなかなか届かず、届いた物資も充分に管理できず……。

当時の兵士に支給されていた兵糧は『雑兵物語』によれば、一日あたり

水 一升(約1800ml)
米 六合(約1080ml)
塩 一勺(約18ml)
味噌 二勺(約36ml)

というもので、米六合はいかにも多いように現代人は感じてしまいますが、基本おかずも無しに重労働ですので、このくらいは必要だったのでしょう。ちなみに当時は玄米が当たり前ですので、ビタミンは米から賄えます。

玄米一合の重量が約156gですので、20万人だと米だけで187,2トンもの量が1日で消費されてしまう計算です。
また、これらをまとめて支給してしまうと、行軍や戦闘にも支障が出る上に、兵達は米を使って酒を造って飲んでしまうということが多くあったそうです。
そこで最大でも一度に4日分程度と、こまめな支給をする必要があり管理工数は膨大なものとなります。
よほど綿密に計画を立てて各所と調整の上で実施しなければ破綻は確実でしょう。

この前代未聞のプロジェクトで兵站部門を取り仕切った武将が長束正家です。

正家はもともと丹羽長秀の家臣でした。
長秀は、秀吉が丹羽にあやかって“羽”柴と名乗ったほどの、柴田勝家と並ぶ織田家を代表する重臣中の重臣です。しかし勝家と違い譜代ではありません。

信長にえらく気に入られていたようで、自身が信長の養女(姪)を娶った上で嫡男の長重も信長の五女を娶っています。2代続けて信長の娘婿というのは家中でも長秀、長重父子のみ。
さらに1573年、長秀は若狭一国を与えられていますが、これは織田家中最初の国持大名です。
若狭は小国ですが、古来より畿内から北陸道への入り口であり、北陸地方、出羽との間を結ぶ日本海交易の重要拠点でした。

丹羽長秀とはいったいどのような武将だったのか。
各地を転戦して成果を上げたようですが、華々しい逸話はありませんし、特別に戦上手として語られることもありません。

安土城普請の総奉行を務めたり、最初に国持ち大名になったことなどから、行政能力に関して高く評価されていたことはうかがわれます。


安土城天主を再現した模型

『翁草』には『木綿藤吉、米五郎左、掛かれ柴田に、退き佐久間』という一節があり

木綿藤吉-羽柴秀吉
色々な用途に使えて丈夫な働き者。持っているととっても便利だ!

米五郎左-丹羽長秀
彼がいなくては始まらない。何をするにも織田家に必須の人物!

掛かれ柴田-柴田勝家
攻め戦ならこの人。先陣の大将は任せておけ!

退き佐久間-佐久間信盛
最も困難とされる退却時の殿を得意とする巧。臆病者ということではないぞ!

それぞれこんな意味合いでしょうか。
決して派手ではないものの、組織運営には欠かすことできない人材であったようです。
こういう人材を重視して優遇するところが実に信長らしい。

そんな長秀のもとで頭角を現した長束正家もまた、行政能力に秀でた人物でした。

豊臣政権下の1585年に長秀がなくなると丹羽家はすぐさま減封処分となり、その際に財政上不正も疑われましたが、正家は帳簿を根拠に抵抗。事務処理能力に長けた硬骨漢といった印象ですね。
そのことが買われたのか正家は豊臣家の直臣となります。このときまだ24歳。
そして翌1586年には九州征伐が発生し、早くも兵糧奉行という超重要任務を任されています。

ここで破綻なく大事業を遂行、この後の秀吉による大規模な合戦では全て兵糧奉行を務めており、豊臣政権における『兵站のエキスパート』となります。

戦国時代はこの正家の他、大久保長安、小西行長などテクノクラート的人物が行政面で活躍した時代でもあったのです。

なお、徳川家には正家のような兵站の専門家がいませんでした。
徳川の戦は今川、武田、北条といった近隣の勢力が相手で、豊臣政権のような本格的な遠征ノウハウの構築をそこまで必要とせず、その能力もありませんでした。
『関ケ原の戦い』や『大阪の陣』でも兵糧調達に難儀したという話が残されています。

『関ケ原の戦い』の直前、上杉景勝・直江兼続コンビを攻める(会津征伐)ために諸大名を引き連れ行軍していた徳川家康は、途中で西軍決起の報せを受けます。
下野小山(栃木県小山市)で鳥居元忠の急使を受け、そこで諸大名との会議(小山評定)を行い西へ向けて反転したという逸話が有名ですが、これは後世の創作の可能性が高く、詳しい経緯は不明です。

ともあれ西へ踵を返した家康は、東軍主力大名のひとり福島正則の居城である尾張清州城を目指します。
清州城には有事に備えて正則が豊臣政権から預かっている30万石とも言われる備蓄米があり、これをまずは抑えに奔ったのです。
逆に言えば、これを抑えない限り、中長期戦になった場合に破滅を免れ得ないほどに東軍の兵站は脆弱であったとも言えます。

一方、長束正家の属する西軍は諸大名に対して「兵糧弾薬は公儀より支給する」と大名に約束しており対照的。

もっとも、豊臣政権がいくら兵站を重視して構築していても、正家らがいくら有能であっても、大規模遠征では物資が不足する傾向にはあったようです。
結果的には関ケ原の決着があっさりついてしまったため、東西両軍が深刻な物資不足に直面することはありませんでしたが。
大規模長期遠征の大戦争で物資不足に悩まされなかった夢のような軍隊など、人類の歴史上おそらくひとつしかありません。マスプロダクトとロジスティクスの怪物、アメリカ合衆国の軍隊だけです。

(芳士戸亮)

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