【独自】「苦役から人間を解放せよ」 荷役近代化の父・平原直の足跡を追う(中編)

【独自】「苦役から人間を解放せよ」 荷役近代化の父・平原直の足跡を追う(中編)

『荷役と機械』で天賦の才いかんなく発揮、情報の宝庫に育て上げる

「荷役近代化の父」と評される物流業界の恩人、平原直。彼の足跡を追う旅の第2回は、戦後に彼のキャリアの中でも代表的な仕事の1つとなった「荷役研究所」への参加と機関誌『荷役と機械』の編集・発刊の前後にスポットを当てたい。

現場を重視する内容にこだわり、「読んですぐ役に立つような雑誌」にしたいとの平原の思いは、物流業界に受け入れられていった。平原の歩みは即、日本の物流業界の歩みなのだ。


平原直(昭和27年・1952年撮影、物流博物館提供)

「自分の人生を結集した論文」で味わう挫折、そして復活

戦争が激しくなる中、平原は「小運送総力研究所」で精力的に活動していた。資材難を克服するため、廃材を使ったトレーラーを「決戦型車両」として考案、利用を推奨したり、野草を飼料に使おうとしたり、どんぐりを使った代用食糧を研究したりと汗をかき、全国を奔走していた。

キレ者と言われ、独自の戦略と世界観で知られた陸軍軍人・石原莞爾の著名な理論書『世界最終戦論』を熟読するなど、戦時体制下でもいかに小運送を維持させるかに没頭する毎日だったようだ。そして迎えた終戦。平原は日本が敗けると思ってはおらず、8月15日の天皇陛下による玉音放送を聞いた時はとめどなく泣いたという。

戦時下の風景(いずれも写真は物流博物館提供)

汐留駅で昭和18年(1943年)5月8日に開かれた「大詔奉戴日」の様子。大政翼賛の一環として1942年から終戦まで行われた国民運動で、対米英両国開戦日に「宣戦の詔勅」が公布されたことにちなみ、毎月8日に式典が行われた。この日、平原は司会を務めたという


労働力不足で築かれた滞貨の山(場所、撮影日時不詳)


汐留駅(撮影日時不詳)


荷役労働に動員された女子学生(汐留駅、昭和19年=1944年3月17日)

多くの国民と同様、虚脱感にさいなまれる平原だったが、やがて平和な文化国家を建設すべしとの論説に感動し、数カ月をかけて今後の小運送の在るべき姿を示した論考「小運送科学化方策に関する所見」を執筆、昭和21年(1946年)2月に完成させた。

「自分の人生を結集した論文」。平原が後に振り返った通り、この論考は旧態依然の運送現場を変えるため、小運送を科学技術化・計画化・組織化し、人材を育成すべしと主張しており、彼が後に提唱する「整合化」などの原理に相通じる、当時としては実に画期的な内容だった。渾身の成果を平原は意見書として日本通運の上層部に提出した。

しかし、彼の英知と熱情はまたしても厚い壁に跳ね返される。同年4月の人事異動で、彼は部長待遇から一気に無役の係長クラスへ降格されてしまったのだ。会社側は降格の理由を明らかにしていないが、タイミングから言っても、多かれ少なかれ、この意見書が人事に影響したことは疑う余地がない。失意の平原は持病を理由に辞表を提出、日通を去った。そこから数年間は東京を離れ、地方で飼料工場の経営に携わるなど、物流とは直接関係ない生活を送ったという。

だが、突っ走る平原にずっと遅れてきていた時代が、ようやく彼に追い付いてきた。戦後の復興を進める上で輸送力の回復が急務となり、そのためには以前のような人力だけに頼る荷役を改善、機械化すべしとの風潮が強まってきたのだ。日本を占領する進駐軍の荷役が合理化されており、日本のそれとはレベルが違う実情を多くの人が目の当たりにしたことも、風向きを変えることにつながっていった。

もともと真摯で実直な平原の才能を惜しみ、行く末を気にしていた人が日通の社内外で多くいただけに、こうした環境変化を受けて、平原を物流業界に呼び戻そうという声が高まっていった。平原の退職後、日通の技術担当役員として招かれた国鉄の技術官僚出身の内山九万(くまん)氏が荷役合理化・機械化に理解を示していたことも大きかったようだ。

そして、平原はとうとう、日通の社外から荷役改善に協力することとなり、東京に呼び戻された。英雄がカムバックを果たした!昭和23年(1948年)10月、日通本社内に設けられた同社の外郭団体「通運荷役研究所」で平原は本格的に活動を再開した。


戦火で屋根が焼け落ちた貨物ホーム。虚脱感あふれる中、荷役が続けられた(場所、撮影日時不詳・物流博物館提供)

「かくして通運作業は近代化されて行く」

平原が研究所で天賦の才をいかんなく発揮したのが、同研究所の機関誌『機械荷役』だ。同誌は「現場本位の雑誌」「誰にでも分り易い親しまれる雑誌」「読んで直ぐ役に立つ雑誌」をモットーに掲げており、平原の現場重視・具体的な解決策考案というスタンスが真正面から反映されていた。

当初は不定期の刊行だったが、国鉄の支援を受けつつ、昭和25年(1950年)4月号から月刊誌として生まれ変わり、タイトルも『荷役と機械』に変更。昭和27年(1952年)11月号でいったん休刊したものの、昭和29年(1954年)に再発刊され、昭和62年(1987年)9月号まで荷役研究所(通運荷役研究所から改編)が30年以上発刊し続けた。その後は発行元やタイトルが変わり、現在は物流業界でおなじみの流通研究社発行の『月刊マテリアルフロー』が後継誌として、平原の志を立派に受け継いでいる。

平原が毎号、精力的に執筆・編集し、全国での講演活動にも注力した。誌面では多くの実務家や専門家が登場し、最新の情報や論考を紹介。まさに情報の宝庫となった。

掲載している記事のタイトルを抜粋してみると(表記は掲載当時のまま)、
「荷役機械の保守手入」「犬と運搬」「昔の荷造、今の荷造」「生産の向上は運搬の改善から(日立工場)」「大陸の荷役 シベリヤ辺境の荷役(シベリヤ)」「海外の運搬機械」などなど、非常に多岐にわたっており、時代を感じさせるものもある。平原ら、編集に携わった人たちが読者を飽きさせず、役に立ててもらえるよう、国内外の情報を幅広く紹介しようと奮闘している姿が鮮明に浮き上がってくるかのようだ。


『荷役と機械』の表紙。“夢の超特急”新幹線も登場するなど、その時々のトピックが表れている。
(左から1952年12月vol.3 No.12、1964年11月Vol.11 No.11、1974年11月vol.21 No.11、1984年6月vol.31 No.6)(物流博物館提供)

平原自身が執筆した膨大な数の論文のタイトルを眺めてみても(表記は掲載当時のまま)、

・「荷役現場巡り 遊休車輛を小型セミトレーラーに改造し大いに能率を上げて居る鶴見支店」(昭和25年・1950年1月号)
・「象と荷役」(同9月号)
・「パレツトの標準規格問題」(昭和27年・1952年9月号)
・「かくして通運作業は近代化されて行く」(同12月号)
・「世界で一番長いコンベヤ」(昭和30年・1955年4月号)
・「おしめとふんどし」(同11月号)
・「ピラミッドはどうして作られたか」(昭和31年・1956年2、3月号)
・「荷役から始まる南極観測」(昭和32年・1957年2月号)
・「荷役人の夢」(同7月号)
・「家庭のオートメーシヨン化と人工衛星時代の荷役」(昭和33年・1958年2月号)
・「まず定義をきめよう――日本荷役の前進のために」(昭和34年・1959年1月号)
・「荷役を通じてアジア諸国との友好をのぞむ」(同7月号)
・「原子力と人類の将来」(昭和36年・1961年4月号)
・「パレットプール・システムの機運熟す」(昭和38年・1963年11月号)
・「パレットメーカーに望む」(昭和42年・1967年2月号)

…と、彼の視野の広さ、考察の鋭さに、驚かされる。そして、タイトルを見ているだけで、なんだか楽しくなってくる。今のようにインターネットがない昔、彼と同時代に、『荷役と機械』でこうした情報を仕入れることができたロジスティシャンたちは、何と幸せだったことか!とうらやましくなる。

後編では、彼がさらに自らの活動を極め、ライフワークともいえるパレチゼーションの普及にまい進する姿などにフォーカスする。


通運荷役研究所の人たちとカメラに収まる平原(左から2人目、平原所蔵の16ミリフィルムより・物流博物館提供)

(後編に続く)

(藤原秀行)

※『荷役と機械』の総目次や平原の論文のタイトルなどは、コチラで確認できます!(物流博物館ウェブサイト)

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