寺内町と一向一揆への海上輸送【戦国ロジ其の4】

寺内町と一向一揆への海上輸送【戦国ロジ其の4】

信長最大の敵

戦国時代の主人公と言っても過言ではない織田信長にとって最大の敵は誰であったか。
信長包囲網を画策した将軍足利義昭、三方ヶ原の戦いで織田徳川連合軍を鎧袖一触蹴散らした甲斐の虎武田信玄、本能寺の変で信長を殺した明智光秀……今川義元、斎藤義龍、朝廷と天皇、弟信勝、母土田御前……様々な意見はあるでしょうが、間違いなく候補に挙がる強敵のひとつは顕如率いる浄土真宗本願寺派による一向一揆でしょう。

なお『一揆』とは本来、反乱や暴動を意味するものではなく、対等な関係の盟約に基づく共同体のことです。
完全に統率されていたとまでは言えないものの、宗主という明確なトップの指導による軍事行動を『一揆』と呼ぶのは問題があると思うのですが、どういうわけか『一向宗』『一向一揆』と呼ばれることが多いので、ここでもそれに倣います。やっぱり『浄土真宗による軍事行動』と呼ぶと……ねぇ??

信長と一向宗との石山合戦は一時的な和睦などによる中断を挟みながらも11年の長きに渡り続きました。信長を相手にこれほどまで戦い続けることが出来た集団とはどういったものだったのでしょう。

浄土真宗は鎌倉仏教に分類される仏教の一派で、鎌倉時代初期の僧侶である親鸞を祖とします。浄土真宗では僧侶の妻帯が許されている(子供を作れる)ため、本願寺派の宗主は代々世襲となっており、石山合戦を指導した顕如は親鸞直系11代目宗主です。

室町時代後期までの本願寺は天台宗の末寺に過ぎず、特に目立つ存在ではありませんでした。しかし8世宗主蓮如の時代に大きく飛躍します。

蓮如は教養の高くない層にも分かりやすいよう簡単な言葉による手紙形式に教義を編纂、信徒を『講』と呼ばれる組織に編成し、集団に対して説法会を開くようにしました。さらに勤行(主にお経を唱えること)を簡略化、とっつき易く改良です。

そもそもが僧侶でさえ肉食妻帯を許される戒律の緩い宗派で、教えは簡潔。悪人だって南無阿弥陀仏と唱えていれば、死んだ後は仏さまが何とかしてくれてハッピー(浄土真宗の教義『他力本願』)というものですので、これらの活動により本願寺派の信徒は爆発的に増えます。

さらに越前に吉崎御坊を建立、独自の勢力圏を築くと、隣国加賀の守護職である富樫氏の内紛に介入、最終的に加賀は一向一揆が支配する国となります。

広域に膨大な門徒を抱えた本願寺派は、各地の寺院や道場を中心に『寺内町』と呼ばれる自治集落を設置します。自治集落と言うと、門徒が集まった冴えない農村のようなものをイメージしてしまいそうですが違います。

寺内町は堀や土塁などに囲まれ、内部には商・工業施設があり、有事の際には兵站拠点にもなる、小規模な総構えと言っても良い発展した要塞都市です。また、近江大津、伊勢長島、大和今井、加賀金沢といった陸運、海運の要所に多く設置されました。これは本願寺の軍事、経済的な先進性の証左でしょう。

このような信仰、布教、政治、商業、軍事、ロジスティクスの拠点を近畿、東海、北陸地方を中心に数多く作り、門徒たちを農村に広げるだけでなく、寺内町と講を中心とした組織化を行ったのです。

蓮如以降の本願寺も布教と門徒の組織化を進め、顕如の時代の本願寺は門跡寺院(寺格の最高位)として朝廷から認められるほどの政治、経済力を持つに至り、まさに最盛期を迎えます。

宿命の??対決

そんな中、前将軍の弟を御輿に大軍を率いて上洛をして来たのが織田信長です。

信長は機内支配政策の一環として商業都市や寺院に矢銭を要求します。代表的なものが堺の銭20000貫、本願寺の銭5000貫です。これを拒否した勢力には取り潰しなどの弾圧が加えられました。
顕如はこの要求に従い矢銭を支払いますが、ことはこれで終わりません。今度は石山本願寺の立ち退きを要求したのです。

後の豊臣秀吉が、この石山本願寺跡地に大阪城を築きますが、そもそもの大阪城構想は信長のもので、秀吉はそれをマネたと言われています。信長は石山本願寺跡地に畿内支配の拠点となる城塞と商業都市をいずれ置くつもりだったのかもしれません。

また、前述のように上洛後の信長は、機内近郊における物流の支配を目論んでいました。その信長にとって国際貿易都市である堺、物流の要衝を影響下に置く本願寺は、何としても屈服させておかねばならない相手だったのです。

しかしこの立ち退き要求には顕如も激怒、三好三人衆攻めのために摂津福島にいた織田軍を攻撃、伊勢長島一向一揆が尾張を攻めて信長の弟信興を自害に追い込むなどして長きに渡る石山合戦に突入してしまうのです。

朝廷などを介した表面的な和議を結ぶことはあっても敵対的な関係は変わらず、顕如は信長と不和になった将軍足利義昭、武田信玄、毛利輝元、朝倉義景、浅井長政、三好三人衆、松永久秀などと連携を続けました。

そして越前の朝倉義景、北近江の浅井長政が相次いで信長に滅ぼされ、越前や加賀の一向宗と織田の支配地が地続きになると、一向一揆が本格的に蜂起、信長の任じた越前守護代前波吉継を殺して越前を掌握、本格的な武力衝突が再開されます。

しかし、一向宗がいくら強くとも、それぞれの拠点は孤立した要塞にすぎません。各地の一向一揆は各個撃破されていき、特に伊勢長島一向一揆は陸路水路共に封鎖される兵糧攻めにあったあげく、降伏勧告に応じて開城するも、これは信長の策略でした。
信長の命令は根切り(皆殺し)。彼らは長島から出てきたところを鉄砲で撃たれ、パニック状態のなか再度抵抗に転じますが、閉じ込められて焼き殺されました。

越前加賀の一向一揆も内部のゴタゴタに付け込まれて攻撃を受け壊滅。やはりここでも根切りの命令が出されます。
武力を持って世俗権力に介入する宗教勢力は徹底的に叩くという姿勢を、信長は比叡山焼き討ちに続いて行動をもって示しました。

いよいよ本当の意味で孤立しつつあった顕如ですが、多くの門徒が立てこもる石山本願寺は堅城です。信長はここでも伊勢長島と同じ戦術を採用します。兵糧攻めです。
始めは城内からの逆襲で包囲軍の将、塙直政が討ち死にし、明智光秀もピンチに陥ったため、それを救援に向かった信長が負傷するというようなこともありました。

それでも織田軍が体制を整えてくると本願寺は籠城以外に打つ手がなくなります。兵糧攻めはロジスティクスと経済力の戦いですので織田軍の真骨頂。
石山本願寺周辺に付け城を設けて陸路を、九鬼水軍らの軍船によって海路を封鎖させます。このままでは本願寺の降伏開城は時間の問題です。

しかし、そんなピンチを救援したのが同盟国の毛利輝元でした。

瀬戸内海はドル箱だった

毛利氏は当主輝元の祖父、毛利元就の時代から水軍を重視していたことで知られています。元就は三男の隆景を、強力な水軍を持つ小早川氏へ養子として送り込み、毛利一門へ組み込みました。また元就が陶晴賢を破った『厳島の戦い』は水軍の活躍が勝敗に大きく寄与したことでも有名です。

毛利の勢力拡大に伴い瀬戸内海の海賊共を次々と糾合、そして当時の日本最強の海賊、村上水軍を取り込むことで覇権を確定。毛利は中国地方の覇者であると同時に瀬戸内海の覇者でもあったのです。

古来、瀬戸内海の物流を掌握することは膨大な利益を生み出しました。

平安時代の『藤原純友の乱』の際、純友は島嶼を除けば陸上の支配地と呼べるものを持っていませんでした。それでも瀬戸内海を支配することで、平将門と並び朝廷を震撼させる大反乱を起こすことが出来たのです。

平清盛のもと平家が隆盛を極めることが出来た力の源泉は、瀬戸内海の制海権を押さえたことでした。

戦国時代の開幕とされる応仁の乱における西軍の主力、大内政弘も瀬戸内海賊の支配に力を注ぎました。その後を継いだ大内義興はその経済力を背景に長期の遠征を可能とし、天下取りへ大手を掛けるところまで行ったほどです。

瀬戸内海の制海権を握るということは、西国、延いてはその先の宋や明など中華世界と畿内の交易路を握るということとなり、莫大な利益を生むものであったのです。

なお、陶晴賢(厳島の戦いで毛利元就にやられた人。優位な合戦に敗れて死んだためイメージは悪いが基本的に有能な人。今川義元や龍造寺隆信と同じく可哀想な人)の下剋上によって大内義隆(政弘の孫)が殺され、大内氏が事実上滅亡したことによって公式な日明貿易(勘合貿易)は途絶えてしまいます。儒教的な筋を重んじる明側が、簒奪者との貿易を拒否したのです。
しかし、それによって『倭寇』などによる密貿易は盛んになり、さらに南蛮人(西洋人)との貿易も始まったことにより、海外貿易はますます膨大な利益を生むようになったのです。

大阪をめぐる海上決戦

そんな瀬戸内海の覇者である毛利水軍が食料と弾薬を積んで大阪へ向かうという報せを受けた織田は、同じく水軍による迎撃を試みます。『第一次木津川口海戦』です。

この戦いは数に勝り、鉄砲、焙烙火矢など火器の扱いに長けた傭兵集団、雑賀衆の協力を得た毛利水軍が圧勝して、本願寺への補給を完遂します。

焙烙火矢とは陶器に火薬を詰めて導火線を付けた榴弾の一種で、焙烙玉とも呼ばれます。そのまま投擲したり、ロープを付けてハンマー投げの要領で投げたりして使用されました。もちろん有効射程距離は短いものだったでしょうが、当時の海戦は“敵船に乗り込んで斬り込み”が世界的なスタンダードですので、そのような接近戦では大きな威力を発揮したようです。

さて、海上輸送によって補給を許してしまった織田としては、このまま手をこまねいているわけにはいきません。毛利水軍による補給を阻止するためには、それ以上の海軍力をもって当たる以外に手はありません。しかし、まともに海上戦力を整備したところで一朝一夕で毛利水軍に比肩しうるはずもありません。

そこで信長は『新兵器』の開発を配下の伊勢湾海賊、九鬼嘉隆へ命じます。それは鉄の装甲で防御力を高めた『鉄甲船』と言われています。

当時の軍船は大型の主力艦である安宅船のほか、中型の関船、小型の小早といった分類でしたが、鉄甲船は特に大型化した安宅船に鉄の装甲を施して、焙烙火矢による攻撃を防いだと言われ……言われるのですが……これは眉唾でしょう。

信長の命令を受けた九鬼嘉隆が新造船を建造したことは事実と思われますが、これに鉄の装甲が施されていたとする同時代の資料は『多聞院日記』に『鐵ノ船也、テツハウトヲラヌ用意』という記述があるというのが全てです。

多聞院日記は奈良興福寺の僧侶たちによって140年間に渡って書き継がれた日記で、戦国時代の畿内の出来事を知る上での一級資料と言えます。しかし、上記の鉄甲船のくだりを書いた英俊は現物を見たわけではなく、また聞きした情報を書き残しただけです。

テツハウトヲラヌ(鉄砲通らぬ)ための装甲とのことですが、当時の鉄砲に使用される弾丸は、現代のライフル弾のように固い金属で覆われたもの(フルメタルジャケット弾)ではなく、むき出しの鉛(リード弾)ですので、人間に対する殺傷力は高いものの、鉄や木材に対する貫通力は低くなります。

当時の安宅船、関船は総矢倉という、船体のほぼ全長に匹敵する矢倉兼甲板を載せたような構造となっており、城郭の矢倉と同じく木製の楯板を設置して防御を固めていました。この楯板は当然、鉄砲に対する防御を考慮に入れた厚みと強度を持つものを搭載でき、わざわざ鉄板で防御をする必要性は薄いでしょう。


総矢倉を持つ村上水軍の安宅船模型(wikipediaより)

むしろ脅威は楯板の隙間から鉄砲で撃たれること、楯板の内側に焙烙火矢を投げ込まれることですので、楯板を全体に巡らせて銃眼を空けることで隙間を減らし、天井を設けることで焙烙火矢を投げ込ませないといったような工夫をするのが自然ではないでしょうか。
また、多聞院日記では鉄甲船のサイズについては『横へ七間(12.7m)、竪へ十二三間(21.8m~23.6m)』と書いており、この記述通りだとすれば寸法比率(7:12~13)と、全長に対しとんでもなく太いずんぐりとした船体となり、船としてはまともに航行できないものと思われます。この点でも多聞院日記の鉄甲船に関する記述は信憑性に疑問符が付きます。

宣教師オルガンティーノの書簡では

日本で最も大きく美しい船だ。王国(ポルトガル)の船に似ている。
自分で行って見て来たんだけど日本でこんなものが作れるなんて驚いた。
大砲が3門搭載されているけど、いったいどこで調達したんだか分からない。
信長がこの船の建造を命じたのは、大坂河口にこれを配置して、補給や援軍を阻止するためだ。大阪(本願寺)は滅亡するだろう。
豊後の王(大友宗麟)作らせた数門の小砲以外、日本には砲なんて存在しないって俺らは知ってる。
でも俺は確かに自分で行って大砲とその装置を見て来たんだ。ホントだよ。
あと高品質でデカい銃を無数に備えてた

というような内容が語られており、船そのものと大砲に大変な衝撃を受けた様子ですが、鉄の装甲というような記述はありません。
なお、大砲は近江国友で製作されたのではないかと言われています。
堺で作っていたら宣教師の耳にも入り易そうですしね。

信長の直臣であった太田牛一が記した織田信長に関する第一級資料『信長公記』でも大砲(大鉄砲)に関する記述のみで、やはり鉄の装甲というような記述はありません。

『鉄甲船』などというものは存在せず、大砲と銃で武装した大型船というのが真相のようです。
しかし、この『新兵器』が絶大な威力を発揮したのは事実です。

長大な射程と破壊力を持った大砲。これは宣教師たちが“日本には存在しない”と思っていたものですから、毛利水軍にとっても初見の超兵器でしょう。そんなものに対応した防御など考慮されているはずもなく、大型の安宅といえども大打撃を受けたことでしょう。
毛利水軍の主力は小型軍船の小早です。小回りの利く小早に分乗して近接戦闘を挑むのが彼らのドクトリンでしたが、小早には大型で分厚い盾板はありません。無数の鉄砲による射撃の餌食となったことでしょう。

かくして織田水軍は毛利水軍を撃破。石山本願寺に対する兵站路を封鎖し、降伏にまで追い込みました。

海軍、水軍の役割は、水上輸送路(シーレーン)の確保と破壊です。
20世紀後半に入り、空母搭載機の高性能化や弾道ミサイル原子力潜水艦が登場することで新たな役割は生じましたが、それまでは歴史上その根本的な任務は不変です。

織田、毛利、武田、大内、戦国大名達は海上輸送路の確保に多大な関心を寄せ、鎬を削っていたのです。

(芳士戸亮)

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